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OIKAWA,Satoko blog

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湯気について1 

湯気を描いている間、何度も浮かぶのは、
中也の「臨終」の一節、「うすらぎて 空となるか?」という部分。
中也の詩には、空からいろいろなものが降ってくる。
自分の請うものが、空にはあると中也は繰り返し詠んでいる。
降りてこなくても、漂いながら近づいて、
手は届かないとしても、姿を見せてくれる、と。

臨終という詩は、モノトーンの悲しい詩だけれども、
空となるか、としめくくるのは、中也にとっての救いに違いない。
空となるか、には「?」が付いていて、
なるかならぬかの答えはどこにもなく、
中也の一方的な願いが宙づりになっている。

思えば「うすらぎて 空となるか?」という問いの一節は、
中也を読むようになった思春期の頃から、
私の中にも、宙づりの問いとして棲みついていたのだけど、
今は、確かに「空になるだろう」と、信じている自分がいると気付く。
そりゃ、中也より、もう10以上も長い生きしたんだもの。

「空となる」と信じているなんて、中也が聞けば、
どんなにか侮蔑されるだろうという気もするけれど、
あまり人にも会わず、山の画室にいて、
広い空の下で、湯気など毎日見続けていれば、
自然の理は、考えるより優しいものだと、信じることは容易なのだ。

うすらぎて 空となる

恩寵は、見ようと思えば、見ることが出来る。
中也の問いの答えは、私の前に事象として見えている。



臨終  中原中也

秋空は鈍色にして
黒馬の瞳のひかり
  水涸れて落つる百合花
  あゝ こころうつろなるかな

神もなくしるべもなくて
窓近く婦の逝きぬ
  白き空盲ひてありて
  白き風冷たくありぬ

窓際に髪を洗へば
その腕の優しくありぬ
  朝の日は澪(こぼ)れてありぬ
  水の音したたりてゐぬ

町々はさやぎてありぬ
子等の声もつれてありぬ
  しかはあれ この魂はいかにとなるか?
  うすらぎて 空となるか?


(追記
 その腕の優しくありぬ
   朝の日は澪(こぼ)れてありぬ
   水の音したたりてゐぬ

 のところをあらためて読んで、
 朝の日もこぼれていいるし、
 水の音もしたたっていていると気付く。
 中也はいつもこんな風に、
 美しいものが落ちてきたり、降ってきたりする。
 だから、その腕は優しく見えるんだろう。
 中也の上下はいつもそう。優しいもの、美しいものはいつだって上にある。
 だから、下に落っこちていた月夜のボタンは、
 どうしたって、捨てられずにポッケにしまう。

コメント

中也の詩、聡子さんの湯気のテーマ、その間にあるものは何かを考えると、まったくもって膨大な、それこそ数限りなくつぶやかれてきた人の存在の意味を問う問いに行き着く限りです。

今自分がちょっと調べている、近代建築の先駆けとされたある建築家に関する評論に引用された一節を二つほど紹介します。一つ目はニーチェの「善悪の彼岸」から。中也とニーチェは時代的にも通じているかと。神との対話を拒む決意には、「うすらぎて 空となるか?」の問いを問い続ける決意も含まれているように思います。

「自分の『最も自然な』状態、つまり『霊感(インスピレーション)』の瞬間に置ける自由な整序、案配、処理、形成が、気随気侭の感情とはいかに縁遠いものであるかを、すべての芸術家が知っている。また彼は、そのときにこそ、自分がいかに厳正かつ入念に、幾千もの法則に従うものであるかを知っている。これらの法則は、ほかならぬその峻厳さと明確さのゆえに、概念による一切の法式化をあざ笑うものだ・・・・もう一度いうが、『天においても地においても』本質的なことは、思うに、長期にわたって一つの方向に導かれるということである」

ks530 #- | URL | 2012/02/11 14:23 * edit *

もうひとつ。近代建築の先駆けとされる建築家ミース・ファン・デル・ローエを考察するのに、機能主義や合理主義で見ようとする一般的な近代建築論で語ることができないのを示すものです。彼が熟読し、好んで引用したドイツ中性キリスト教神秘主義者/哲学者マイスター・エックハルトの言葉から。

「神の御前にて正当なる永遠の生はそれすなわち罪なり。汝の作品はすべて死んでいる、何らかの動機が汝に行動を強いるまでは。そして神が汝に無から行動することを強いたとしても、そうした作品は真にすべて死んでいる。汝の作品を生かすかわりに、神は汝を内から動かし、汝の魂の深みから動かさねばならない。そこにそれらは生きているはずである。これが、汝の生があるところであり、そこにのみ汝は生きるのである」

ks530 #- | URL | 2012/02/11 14:31 * edit *

ks530さま
いつも、本当に知るべきことを教えて下さってありがとうございます。
ニーチェの方は本当にそうだなぁと思うのですが、エックハルトの方は難しいです。
>神の御前にて正当なる永遠の生はそれすなわち罪なり
という最初のところから難しいです。信仰心の部分ではかなり素朴なところがあるので「えええーーっ???」となってしまいました。

ただ、多分、ニーチェの「概念による一切の法式化をあざわらうこと」、中也の「名辞以前の世界」エックハルトの「神性の無」ということ、その辺りのことを、私は湯気で探っているということを、ks530さんは感じ取って下さったのでしょう。
ということは、エックハルトを読んでみなければ、と思う次第です。
また、少し考えてコメントいたします。

及川聡子 #.FEr8UEM | URL | 2012/02/11 22:46 * edit *

エックハルトはその後のドイツ哲学、ルターなどに影響を与えたということです。
この一節は「建築=Architecture」の西洋における存在意義を考える上で引用されたものだと思います。石の建築は立ち上がれば半永久的に立ち続けるようにも思われ、それが神の世界を現前させると思い上がるならば、それは罪であるという意味かと取りました。求められるべきはその動機であり、動機の拠り所ということでしょう。その動機がこの世界の中で見いだすもの、見ようとするものは何なのかーーそこで建築は社会的意義を第一にしたものから、より個人の内なる声の純粋さへと還っていく、という評論でした。

ドイツ語には「建築」を社会的な存在として捉える(故に技術や機能などを優先する)他に、「バウ・クンスト=建設芸術」という捉え方によってより広がりのあるものとして捉えようとする背景もあります。今、ここに興味をひかれているところです。

このミース・ファン・デル・ローエという建築家についての評論をいくつか読んで考えるところがあったので、今年初めてのエッセイをそのうちまとめたいと思います。彼にまつわる圧倒的な誤解、その誤解に基づく近代建築評価の論点のずれ。建築が社会を第一にすべきなのか、内なる個の発露なのか、それを見つめ直すいいきっかけになればと考えています。

ks530 #- | URL | 2012/02/12 17:57 * edit *

ks530さま
分かりました。ここで言う「永遠の生」は、人間が作り上げるもののことなのですね。そう理解して読むと、すっと分かります。
社会第一ということが、建築では常識とされてきて、だからこそ「内なる個の発露」ということが、近代に、ぐぐっと意識されてくる…という流れなのでしょうか?個の発露としての建築という意識はいつごろから生まれたものなのでしょう。
「内なる個」というのは、よくいう「個」とは違うものなのでしょうか?エックハルトの言葉を思えば、そこには人間個人の自我ではなく、神様の働きが内にあります。エックハルトがそこで述べる神様の動きというのは、既成の宗教からも逸脱した「何か」でしょう。(だから異端とされたりしたのでしょうし)その「何か」「内なる個」の「内なる」というものに、私も興味を持ちます。
近代以降、個というのは何よりの価値とされているようなところもありますが、社会と個、それ以外の「何か」が、個のもっと根底の「内なる」ところに動く。それはなんでしょう。

私は今回の震災を通して、これまでの社会が根底から覆されるような感覚を持ちました。と、同時に、個の意識もどこかで変りました。それはどういうことなのか、まだあいまいでわからないのですが。それが表現としてどう現れるのか。自分でも皆目分からないまま、湯気を追っている毎日です。

及川聡子 #.FEr8UEM | URL | 2012/02/12 21:20 * edit *

聡子さんの疑問は、自分が言わんとしていたものよりさらに一段上の、より深い問いですね。今度はこちらが「うーん」とうなっています。
世界について理解しようとし、記述しようとし、その過程で発見されてきた大きな摂理ーーそれが未だ理解を超えたものである時に、人はそれをどのように捉えようとするのか。理解不能を思考停止の起こる終点としてしまうのか、それが新しい出発点となり飛躍や跳躍を促すエネルギーと変えられるのか。

そこでは社会と、内なる個のせめぎあいも起こるでしょう。そして今回の震災のような、社会のレベルでも個のレベルでも向き合わねばならない事体において、その問いは問われ続けなければならないものなのだと思います。表面的な言葉遊びや観念のみでは受け止められないものーーそれは、ある意味で個それぞれが見いださなければ意味をなさないものなのでしょう。それが単なる「個」ではなく、「内なる個」として形を成すものなのではないでしょうか。

ks530 #- | URL | 2012/02/14 20:58 * edit *

>表面的な言葉遊びや観念のみでは受け止められないもの
>個それぞれが見いださなければ意味をなさないもの。>それが単なる「個」ではなく、「内なる個」として形を成すものなのではないか。
私も全くその通りに感じます。ks530さんは、端的にまとめる能力がすごいですね。言葉にしてもらって、頭の中が整理整頓されて、非常に見渡しがクリアになります!

言葉遊びや観念の前提となるもの。ニーチェの言った「概念による一切の法式化」が、震災によって「あざわらう」が如く、崩れてしまった、というように私には思えてならないのです。でも、1年経って、世間を見渡せば、まるでなにもなかったかのように経済至上の社会に戻っているようで、自分の実感と社会の姿のギャップに、心底、具合が悪くなるという状態が今も続いています。
自然が、黒々と盛り上がりながらすべてを飲み込んで、渦となり、建物も、人も、動物も、貨幣も、美術作品も、何もかも粉々にしたのです。残された人は、あの時、個を超えて、助け合いました。あの頃、確かに感じられた「何か」が、あっという間に、あいまいで生ぬるい法式の中に戻されようとしています。
私はどうにかして、それに抗いたい。それが、今の私にとっての、内なる個の胎動のように思っています。

及川聡子 #.FEr8UEM | URL | 2012/02/15 21:22 * edit *

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