OIKAWA,Satoko blog

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魔法の眼鏡 

私はとても眩しがりである。
仙台駅の前は大きなテベストリアンデッキが広がっている。
そのテベストリアンデッキは大抵、目を閉じぎみで歩く。
駅構内から外に出た時の眩しさがつらいからだ。
まつ毛をカーテン代わりにして、まつ毛分だけ目を開け、
薄目にして歩く、不審な人である。

そこで長らく欲しかった「偏光レンズ」のサングラスを買った。
これは釣りをする人がよく使用するサングラスで、
ある一定の方向からの光しか通さないため、
乱反射が抑えられ、眩しい水面のぎらつきなどが消えるというもの。
川の中まで見通せるので、水中の魚の様子も見て取れる。
水面のぎらつきを抑えるくらいだから、
街中のアスファルトの照り返しなども抑えられる。
昨日、買って、さっそく犬散歩にかけて行った。

雑木林を歩いて、驚いた。
葉と葉、枝と枝、木と木の間の距離感がくっきり分かる。
木を取り巻く空間が見える。
空間の構造がはっきり見えてくるのだ。
裸眼の私の視界は、
白飛びとハレーションに覆われているから、
奥行き感が少ないのだと思う。
絵を描いていても、自分は奥行きに弱いと自覚している。
私がよく描く薄氷は、
氷の表面から地面の奥までほんの数センチしか距離がない。
数センチの奥行きを間近で捉えることが、私にはちょうどなのだ。
その奥行きを上から見下ろして見る訳だから、
光の乱反射の影響も少なく、安心して観察することが出来る。

偏光レンズサングラスをかけて見る世界は、
木や石や葉がはっきりと実在していて、
そのモノが空間の中にあるということがよく分かった。
眩しがりではない人は、
裸眼でもこういった奥行き感を感じているのだろうか。

とにかく、その奥行き感、空間とモノの構造が面白く、
ぽっかり口を開けて「へー!、ほー!」と声を上げつつ散歩した。
その面白さは、近年にはない感動的な視覚体験だった。
どの木も、どの枝ぶりも、いくらながめても見飽きることがない。

この感覚は、ジャコメッティの展覧会を見た時に似ていた。
大きな空間に展示された細い人物像を見た時、
像をあらしめている空間の緊張感と、膨大な空間の「量」に感銘し、
彫刻というものの意味を理解できた気がしたものだ。

偏光レンズは私にエーテルを体感させてくれたのだと思う。
光を選り分けることで、光を媒介するエーテルの姿が現れたのだ。
それは確かに、モノを在らしめるエネルギーを持っていて、
世界に充満している。
物理的には否定されてしまったエーテルとは、
多くの人が感じ取ってきた空間の力そのものなのだろう。
空間は無ではなく、余白でもない。
量と質と力をもって、世界を成り立たせている。

しびれるような感動で、散歩から帰った私は、
サングラスを、大事にしまいこんだ。
安物のアウトドア用品であるそのサングラスは、
私にとって、宇宙を覗き見ることのできる
魔法の眼鏡なのである。



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荒れる空 

荒れる空

大変な地震。
被災された方が安心できる日が早く来ますように。

最近、空が不思議な姿でいることが多い。
昨日はやや黄色味かかった色で異様だった。
OTTOが
「ろうと雲ができそうな空だ」と言いながら空を見ていた。
ろうと雲は竜巻の前兆らしい。

先日、東北~関東で震度4くらいの地震が観測された時には、
我が家の周りでは、地震発生と同時に雷がなり、大雨が降り始めた。
三つどもえの異変に愛娘犬も震え出した。
「大丈夫だよ」となだめる自分もかなり怖い気持ちに襲われた。

地震と雷が同時に起こるのは、
地震の発生源が地表に近い場合あることらしいけれど、
以前はそんなことはあまり体験したことがない。
ここ最近は地震+雷が頻繁に起きる。

空が光って、大地が揺れる。
日食が起きて、おたまじゃくしが降る。
昔の人々なら、神々の怒りだと恐れるに違いない。

様々なことを科学的に理解できるようになった現代でも、
恐れる以外にどれほどのことができるのだろう、と思いながら、
今日も晴れ渡ることのない夏の空を眺めている。


※写真は今年の2月に撮った雲の写真。
まるで緞帳のように町に降りていた雲。

 

毛細


精一杯のつもりだけれど、
こぼれてしまうこともある。

巻き戻せたら良いのに、と、
そんなことばかり考えさせる雨。雨。雨。

キャンバスの矩形の割合 

放1
(制作中の作品の部分写真)

絹の小品と共に、
秋の宮城県芸術祭出品用に、
紙の作品を制作している。

今年は例年より出品作のサイズ上限が小さくなり、
横幅は162.0mm以内ということなので、
100号のPで描いている。
最近、大きな作品は連結パネルを使用していたし、
キャンバスの規定の割合、サイズで描くのも久しぶりなので、
つなぎ目なく広がる規定の矩形が新鮮に思える。

私は91cm×182cmという、3×6のパネルを良く使う。
これだと、中判の紙がちょうどぴったりのサイズだし、
人間が等身大で1人入る位の大きさなので、
相対して描く時に親密な感じがして好きなのだ。
3×6は運ぶ時にもとても楽だ。
つくづく日本人の身体に合う割合なのだろうと思う。

一方、キャンバスの割合は、
もっと視覚的に対峙しやすい感覚が私にはある。
だからなのか、フレームがいつもより意識される気がする。
そこで今回は、あまり意識しすぎて、
フレームの中におさまってしまわぬよう、
一度仕上げた小下図の四辺の一方をカットしたり、
逆に伸ばし、描き加えたりして下図を仕上げた。
規格通りに整えた後に、切ったり伸ばしたりしたことで、
ちょっと奇妙な空間になると良いなと思っている。



ハウスリミックス「南部牛追い唄」 

どうさ

昨日の日中は久々に晴れたので、
木枠に張った絵絹に礬水(どうさ)を引いた。
雨の日は引いてはいけないから、
ずっと晴れの日を待っていたのだった。

昨日は自宅近くの駐屯地で夏祭りが行われていた。
遠くから、さまざまなバージョンのソーラン節が流れてくる。
一番メジャーなロック調のものは全国に普及して久しいから、
ストリングスを入れたゆったりしたものなども作られた様子。
ソーラン節は海の歌なのに、弦が入ると、
ダンサー・イン・ザ・ダークかラストサムライの音楽ような、
大草原ふうに聞こえてしまう。遊牧民の音楽みたい。

しばらくして、違うフレーズだなと耳を澄ますと、
ハウスリミックス版南部牛追い唄だった。
南部牛追い唄は、
せつなさもあって、私の好きな民謡のひとつだ。
その歌がハウス調になっているという衝撃。

ソーラン節は海の歌であったほうがいいし、
牛追い唄は、牛の歩に合わせたテンポであるべきだろう。
ま、夏祭りなんだから、良いのだけど。
現代風にアレンジされて、親しまれた方が良いのかもしれないし。

そんなことを思いつつ、天気のおかげでしっかり乾き、
筆入れの準備万端な絵絹の様子を確認していた夏の1日。

(写真は礬水用のステンレスの器。
 真ん中に○があると、つい、●を描いてしまい、
 ●を描くと、つい目を入れて愛娘犬にしてしまう)

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