OIKAWA,Satoko blog

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貝殻 

貝


貝殻を拾いたくて、海に行った。
思ったような貝殻はなく、残念。
少しだけ持ち帰った貝殻。
モチーフにするには、まだ他人顔をしている。
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西に 

先日、素敵なお誘いが京都より届き、
とても喜んでいたところ、
今日は良い知らせが、愛知の豊橋から届いた。
東北に住んでいると、(というより、私の場合か)
東京までは活動圏内なのだけど、
それより西になると、遠いような気持ちになりがち。
もちろん、奈良や京都は大好きで、
子供の時から、何度も訪れてはいるが、
自分の発表のフィールドとしては、
想定できないくらい遠いような気がしていた。

出不精で、極端にインドア派の私の代わりに、
作品は少しづつ足を伸ばし、
日本列島を旅してくれようとしている。
もっと自分の世界を広げるようにと、
背中を押してもらっている気がして嬉しい。

カメラ欲しい 

ふいに欲しくなるのがカメラ。
私にとって最初のカメラは、父から譲られたフィルム時代のEOS。併用して、CONTAXのT2。思えばずいぶん恵まれたカメラデビューだったのだけど、撮った写真は多くない。当時、美術教室をしていたので、その生徒達の制作風景を撮影したり、作品を撮影するのがメインだった。
大学時代は、フォトコラージュしたものを絵にするということを続けていたので、その素材を撮ることもあった。中央線電車内で、可愛らしい制服を着た小学生をEOSで撮影。大きな一眼カメラで知らない人に写真を撮られた少年たちはその後、動揺気味になってしまった。今、そんなことをしたら、捕まってしまうかしら。
その写真は私の卒業作品に活用された。

その後、デジタルカメラの時代がやってきて、私はスクエア型のFinePixを買った。ちょうどパソコンもデスクトップからノートに代え、ホームページを作ることも始めていた。現像に出すこともなく、スキャナーなしでサイトにもすぐ使える気楽さから、俄然、写真をよく撮るようになった。写真をよく撮るようになると「もっと、こんなカメラが欲しいな」と思うようになるのは当然。まして、デジカメの性能は日進月歩だから、すぐに2台目が欲しくなり、いろいろ検討した結果、同じFinePixのF710を購入。このカメラにはFUJIならではのスーパーCCDハニカムの中でも、スーパーCCDハニカムIV「SR」という方法が採用されており、白く細かなところもちゃんと撮れるというのが決め手で選んだ。今もこのFinePixF710を使っているし、OTTOも取材に使用する、我が家のメインカメラである。

まだまだ現役のFinePixF710なのだけど、雑誌でカメラのレビューなど見ると、どどーんと物欲の波に取り込まれてしまう。最近は手ごろな値段のデジタル一眼も多いからなおさらである。手ぶら二ストとしては、一眼は携帯できないからコンパクトデジカメ。撮るものは思い切り接写したりしたい……などと探してみると、Ricohのコンパクトカメラが良いようす。やはりGR DIGITALが良いだろうか、ズームの出来るGX100が良いだろうか、と、量販店からカタログを持ってきてみたり、価格.comでクチコミをチェックしたりしていた。(もうひとつ心引かれるのはCanon PowerShot G9)


GR DIGITALの何よりの個性は単焦点。GR DIGITALを選択した場合、今のようにズームを頼りに被写体に寄ったり出来ない。自分で被写体に近づくというのは「撮る」という感覚を強く感じたりするのだろうか。などと考えていくと、まずは機種を手に入れる前に「撮る」ってどういうことか、知っておこうと思うようになった。

私は撮る時は完全なAFでやってきてしまった。せっかくだから、と、カメラの基本の本を買ってきて「絞り」とか「露出補正」などということを勉強中。読んでみると、撮影の方法云々だけではなく、「見る」ということがどういう仕組みになっているか、人間の目とどういう風に違うか、ということに思いを馳せることになり、これがとても面白い。
昔、初めてイラストレーターで「ベジェ曲線」というものを知った時「線を引く」ということを、こんな風に考えた人もいるんだな、と、いたく感銘を受けたのを思い出す。
「見る」とか「描く」ということを、プログラムしたり、機械にしたりすると、無意識にやっている行為のしくみや意味が見えてきたりするものなのだろうと思う。「歩く」という行為もロボット工学によって、たくさんの側面や仕組みが理解されてきているんだろうな。

カメラの購入については、もうしばらく思案する予定。FinePixF710はその気になれば充実したマニュアル撮影も出来るし、RAW撮影も出来る。大事に、できるだけ機能を全部使ってみてから卒業しようかな、と思う。

デジタル「写真の学校」デジタル「写真の学校」
(2005/07)
キットタケナガ東京写真学園

商品詳細を見る

写真の基本が知りたくて買ってみた本。
とても読みやすく、私にも分かりやすい。

大きさと距離と 

大きな絵を描いてた近年だったが、小品を描くことが、このところ続いている。これが難しくて苦しんでいる。数年前までは、SMや3号くらいの小さい作品を描くのが好きで、50号以上の絵を描くのにも苦労していたのに、最近は100号の絵を描くにも、小さくて難しく感じる。まして、10号とか3号、となると、同じ「絵を描く」こととは思えないほど、違う表現をしている気持ちになる。
「小さなモチーフを、大きく描く」という、マクロ撮影ならぬマクロ描写が最近のテーマなので、画面の大きさは、とても大事なファクターだ。ここは、きちんと「小さな絵を描く」意味を捉え直さないといけないな、と思っているところである。

小さな絵を描く時に気になるのは支持体である紙の表情だ。大きな作品は全体を見る時に、作品から大分離れて立つから、紙の表情を強くは意識されない。小品は作品に近づいて見ることになるので、紙の表情がよく見える。
これまで私は雲肌麻紙を使ってばかりいた。紙を必要な分取ると、小さな半端部分がたくさん出るので、これを小品用にしてきた。しかし、本来、大作用で厚塗りに耐えるように作られた紙である雲肌麻紙は、表面に雲の肌のような凹凸がある。これが岩絵具のひっかかりを良くする効果もあるというが、薄塗りで小品となると凸凹の紙の表情が勝って、白の余白が空間になることなく「紙」そのものであるように見えてしまう。白い部分が「紙に胡粉を塗った部分」にしか見えてこない。(もちろん、これは私の構図の甘さによるものでもあるとは思うけど。)

思ったようにいかず、唸っている時、ふと「すが糸」のことを思い出した。

我が家には人毛の人形がいる。人毛の髪というと、人形が身近でない人にとっては「怖い」と思われがちだが、やはり人間の髪だけあって、人形にリアリティーを与えてくれるので私は人毛が好き。
日本の創作人形には「すが糸」という、細い糸が使用されていることも多い。すが糸は、触ると少しキシキシして、絡まりやすい。見た目も、ホワホワとしていて、いまいち好きになれない気がしていた。

けれど、与勇輝さんの作品を間近で見た時、すが糸の髪がとても魅力的に見えた。おくれ毛の感じなど、このやわらかで細いすが糸だからこそ、こんなに繊細に見えるのだろうな、と思った。ちりめんで出来た細い首筋に、すが糸がかかっている様は、やわらかな肌の少女のいたいけな感じ、そのものに見えた。

与さんの人形は、どこかジオラマ作品を思わせる。人形単体を間近で見るというよりも、表現された場面を見るように作られていると思う。作品自体は大きくないから、もちろん近づいてみるのだけど、抱き人形のように触れるほどそばに寄る訳ではない、絶妙な近距離から見るように出来ている。その暗に設定されたその視点から見ると、すが糸やちりめんの風合いが、ソフトフォーカスで撮られた写真のように、もしくは、遠い記憶の一場面を思い出した時のように、空気感をともなって、ふんわり目に入ってくる。
与さんは最近、映画の一場面を人形で再現するシリーズを制作されているが、それもよく分かる。与さんの作品は人形そのものというよりも、場面の表現なのではないかと思うからだ。大きな空間を掴むものではなく、少し覗き込むような、個人的で、ほどよく小さな空間。だからこそ、見る人が「自分の思い出」であるかのような、親密で懐かしい思いを抱かせる場面の表現になっているのではないだろうか。

あれが人毛なら(当たり前だけど)台無しだ。小さな人形に大きな人間の髪の毛を生やしたのでは、ありえない太さになってしまうから。人毛の艶も強過ぎて、ソフトフォーカスの世界を壊し、見る人の立ち位置、視点を狂わせてしまうだろうと思う。
大作用の紙で小品も描く、というのは、このことに似ているのじゃないか、と思い当たった。小品には小品に適した画材を選ばないといけない、というような画材技法の問題ではなく、大きさ、距離、視点、に関わる問題として。
そう考えていくと、礬水のことにも思いが巡る。礬水を、滲みを「止めるもの」としてだけ考えてきたけど、これも距離、視点の問題と思って考えていかなくちゃ、と思う。紙の表面から内面に滲んでいく距離についても、もっと意識していかないと。

作品の大きさと、モチーフの大きさと、画材の大きさ。距離、視点。小品を描きながら、よくよく考えないと。と、これまで使ったことのない紙を前にして、考え事をしていたこのひと月近く。頭を働かせると手が動かない。ぼんやりと方向が決まってきた気がする。さて、手を動かさないと。

無事です 

今朝、岩手・宮城内陸地震が起きたことで、
ご心配のメールなどいただき、感謝いたしております。

我が家周辺には大きな被害の様子はなく、
家の中も、家具等が倒れるようなことはありませんでした。
しばらくして、よく見てみると、
いたるところの小物が、床に落ちているので、
それらを整理したりしているところです。

ちょうど、大きな作品を描き終えていて良かったです。
ほんの数日前まで、アトリエの床いっぱいに絵が広がっていたので、
そのままでしたら、小物の類いが絵の上に落ちて傷がつくところでした。

地域によっては、大きな被害が出ているようです。
亡くなられた方や、怪我をされている方もいらっしゃるとのこと。
土砂崩れの心配などもあるようす。
被害が広がらないことを祈っております。


追・地震の時、ちょうどテレビを付けていたので、
緊急地震速報を初めて体験しました。
地震の揺れと、速報は限りなく同時に近い印象でした。
その後も、余震に関して、テレビから
「速報が出ているので強い揺れが予想されます」
という報道があり、すごいな、と思いました。
余震は、かなり頻繁に来ているので、
余震後に「速報が出ているので強い揺れが予想されます」
という報道があり、その後も余震が来たりするので、
予想になっているのか、速報になっているのか、
分からなくなったりもしましたが。
速報によって、何かしら対処ができるということも、
もちろん有効でしょうが、
今回私が印象的だったのは、
揺れ始め、速報が出た時、
ふっと客観的になった自分の感覚でした。
どういうことかよく分かりませんが、
自分の感覚だけで事態を理解しようとするよりも、
外部から情報が与えられると、
冷静になれるものなのかもしれません。
私の場合はそんな風に感じられました。

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