OIKAWA,Satoko blog

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ウグイスの慟哭 

ヤマガラ


冬、父のアトリエに行くとよくヤマガラが来ていた。
オレンジの胸で、可愛らしい野鳥だ。
実に興味深げに父の様子を見ているので、父は、
「あのヤマガラはお父さんが好きなんだ」と言っていた。
同じ頃、我が家の庭にもヤマガラが来るようになった。
私が洗濯物を干していたりするのを、かなり近くまで来て、
首をかしげかしげ見ている。
せっかく来ているのだからと、お米をまいてみたりしたけど、
食べるわけでもなく、ヤマガラはただ私を見ているのだった。
春になって、
「ヤマガラ、来なくなっちゃったんだよ」と母が言う。
そういえば、うちの庭にも来なくなったな、と思っていた。

我が家から少し歩くと雑木林に囲まれた遊歩道がある。
いろいろな野鳥や、時にはリスも見ることが出来る、とっておきの散歩道。
ある日、その雑木林でヤマガラのツガイを見かけた。
父に、
「今日、ヤマガラのツガイを見たよ。
きっと、あのヤマガラ、お父さんとツガイになろうかなー、
と思って、通ってたけど、考えてみたら種が違うことに気づいて、
メスを見つけちゃったんじゃない?
それで、来なくなったんだよ」と話した。
すると、
「そうだよ。そうそう。やっぱり鳥じゃないとと思ったんだよ」と、父。
冬の終わりから春にかけて、オスの鳥たちは一生懸命だ。
人間だって(しかも人間の男性すら)一応候補に入れるほど、一生懸命なんである。

その一生懸命さが顕著に現れるのはウグイスの鳴き声だと思う。
父のアトリエの近くにも、すばらしく軽やかできれいな声で啼くウグイスがいる。
春先には、なんだかおぼつかない感じで啼き始めるのだが、
しばらくすると、喉の調子も良くなるようで、本当にきれいに啼く。
ウグイスの啼き方はそれぞれ個性があるので、
「あ、あのウグイスだな。今年も啼いている」と分かるものだ。
我が家のそばの遊歩道にも、去年と同じ節回しで啼くウグイスがいる。
「ほら、あのウグイスだよ」と私が言うと、
「ほんとだ、あいつだね」とOTTO。

ウグイスは「ホーホケキョ」を主題として、
その前後で、それぞれひねりの効いた展開をし個性を出している。
きっと、その個性的な表現の善し悪しで、モテたりモテなかったりするのだろう。
遊歩道にいるウグイスは、実に個性的な節回しをする。
ホーホケキョ ポッパッペッピ ポッパッペッピ ポパペピ ポパペピ ……
と啼き、その ポパペピ が、どんどん加速する。
しかも、主題であるホーホケキョはたまにしか啼かない。

このウグイス君。もう、5月も末だというのに、相変わらず啼いている。
疲れてやぶれかぶれのように ポッパッペッピ 啼いているのだ。
あのように啼いていては、女の子たちにモテるとは思えない。
ウグイス君の鳴き声は、メスの気を引くためのものから、
自己表現の域に達し、その自己満足さゆえに、伴侶を得ることもなく、
今年もその孤独の歌を歌い続け、すでに梅雨を迎えようとしている。
やぶれかぶれの節回しは、なおも加速と激しさを増し、
すでに慟哭の響きを醸し出している。

ウグイス君。どうか、心を静めてくれたまえ。
少しゆっくり、息を吐いて、落ちつこうよ。
今年はもう、あきらめよう。
来年の春のために、もっとムードを学ぼうではないか。
君のスローバラードを、私は待っているよ。種は違うけれどね。

※写真は父のアトリエに訪れていたヤマガラ

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鳩の赤ちゃん 

こっこ3

オス、と言われて実家にやって来た銀鳩は、
しばらくしてから卵を産みだした。
ひよこの性別は判断が難しいらしく、
孔雀の時も、日本鳥の時も、オスのはずがメスだったり、
メスのはずが、オスだったりすることが時々ある。

産んだら、温めたくなるのが性らしく、
銀鳩はかえるはずもない卵を毎日抱いていた。
見かねた両親は、オスを迎えてあげた。

こっこ2

鳥の夫婦というのは、本当に仲むつまじい。
夫婦、代わり番こに抱っこに抱っこを重ねていた卵から、
先日、とうとう赤ちゃん鳩が生まれてきた。

こっこ

生まれたばかりの時は、羽も生えていなくて赤い状態だったのだけど、
今は、すっかり羽も生えそろっている。
面立ちはちっとも赤ちゃんぽくなくて、大人のよう。
鳩は、鶏のように、ホワホワ黄色のヒヨコ時代はなく、
真っ赤かから、大人羽が生えてくるものらしい。

数日前までは、それでももっと赤ちゃんっぽさがあったのだけど、
カメラを向けて怖がらせる訳にはいかないので、
写真を撮らずにそおっとしておいた。
親鳥たちも、私たち人間や、実家のシェパードが覗く分には、
「可愛いでしょ、私たちの子よ」という顔をしているが、
我が家の愛娘犬が近寄ると、見知らぬ獣!と思うらしく、
慌てて赤ちゃんの上に覆いかぶさり、その羽で赤ちゃんを守る。

以前、日本鳥をたくさん飼っていた頃は、
孵卵器でヒナを孵したり、
よく卵を温めたがる烏骨鶏のメスに、
他の鳥の卵を温めさせたりして孵したものだった。
今回のように、自然な成り行きで赤ちゃんが孵るのを見るのは初めて。

親鳥たちはとても誇らしげで、
赤ちゃんは元気。見ていて、とても嬉しい。

嘘はいけません 

久しぶりに腹立たしい体験をした。

出来るだけきれいな作品写真が必要だったので、
仙台のカメラ専門店Kに画像データを持っていった。
ファイル審査等のための大事な写真はいつもここにお願いしていた。
現像自体は、この店がやっている訳ではなく、
郊外のプロラボに発注しているそうで、日にちがかかるが、
自分の運転では、郊外まで行く自信がないから仕方ない。

圧縮したくなかったので、JPGにせず、TIFのままお願いした。
出力見本も持っていき、データがTIFであることも明記。
「1日下さい」と言われたので、二日後の昨日、写真を取りにいくと、
「データが読み込めませんでした。JPGに変換して下さい」とのこと。
このような返答を受けるためだけに、
往復1000円の交通費と、2時間程度の時間をかけてしまった。
データを受け取った時、TIFと明記してあるのだから、
その時点で、受け付けられないと気づくべきだと思う。
つい、気が付かず、受け付けてしまったのなら、
ラボから読み込めないと言われた時点で、電話連絡でもくれれば、
JPGに圧縮して持ってくることも出来ただろうし、
なか1日の時間を無駄にせずにすんだ。

「JPGじゃないと読み込めないと分かった時点で連絡していただければ良かった。」
と意見したところ、
「(連絡せず)すみません。
 TIFを読み込むソフトがないので、JPGじゃないと出力できません。」と言う。
「TIFを読み込むことの出来るラボはないと言うのですか?」と聞くと、
驚くような返事が返ってきた。

「仙台でTIFを読み込めるところはありません」

そんなことってあるだろうか?
信じられないと思ったけど、50代位のしっかりとしたおじさんが、
私の目を見て、はっきりと明言するのだ。

「仙台でTIFを読み込めるところはありません」と。

納得行かず、駅前のヨドバシカメラに行き、
「カメラ屋さんにTIFは読み込めないと断られたのですが」と話すと、
「大丈夫だと思いますが、今、データ確認致しますね」と、
受け付けの女性がサクサクと対応してくれた。
ものの2分程度で、
「読み込めましたよ。7時の仕上がりです」とのこと。
サバサバ、サクサクの事務的な対応の女性が、
私にはこの上なく優しい天使のように思えた。

それにしてもひどいのは、
「仙台でTIFを読み込めるところはありません」と言い切った、
あのおじさんである。
「うちでは読み込めません」というなら分かるが、
「仙台で」は、ないだろう。
ヨドバシでは出来ているのだから、嘘を言ったことになる。
嘘はいけません。いけませんよ。

時折、こういうことはあるものだ。
画材店でも「○○はありますか」と聞くと、
「○○というものはありません」と答えが返ってくる。
店に置いていない、という意味ではなく、
この世に○○というものは存在しない、という意味らしい。
「石膏取りに使う"切り金"はありますか?」と聞いたら、
「"切り金"ですか?"カナツリガネ"ならありますが」と言われたことがある。
「"釣り鐘"???」と私はすっとんきょうな声をあげて驚いたが、
店の女の子は、いたって真面目な顔をしているので、
「こりゃ、話にならないぞ」と、帰ってきたことがある。
この画材店も仙台の老舗だったのだけど、
そんなことが続くので、私はまったく行かなくなってしまった。
そうこうしているうち、その画材店は閉店してしまった。

当店にはない、とか、当店ではできない、
ということを言いたくないのかもしれない。
お店のプライドなんだろうか。
けれど、本当にプライドがあるなら、
正しい専門知識を持ち、流布していていただきたいものだ。
まして、その場の言い訳で、お客に不利益を与えてはいけないでしょう。
私が「仙台ではTIFは読み込めない」と、信じてしまったら、
これからも、せっかく高画質で撮ったデジタル画像を、
JPGに圧縮し続けることになるのだから。
写真に対しても、客に対しても、仙台の他のお店に対しても、
実に失礼な発言だと思う。まったく、腹立たしい。

もう絶対、あのお店には行かないと決めた。

ブランコ 

制作中の絵は4割程度描き進んだ。
いつも、この4割程度から6割くらいまでの間が、気持ちも乗って、苦しまずに進む。
その分、勢いもある気がする。

完成が見えてきて、心のどこかが「まとめに入る」と、
途端に勢いが止まるように思う。

今回も、ここまでは、すうっと進んでいる。
そのまますうっと、終わりになればいいのだけど。

ブランコを漕いで、
ちょうどよく登ったところから、
不安なく手を離し、着地するようなイメージで。
重力との戯れのように、軽やかに。

備蓄 パンデミックフルー 

このところ「新型インフルエンザ」についてよく調べる。
調べると「どう考えたってどうしようもない」というような気持ちになるが、
とにかく、自分たちで出来ることはしておこうと思い、
買い物のたび、ちょっとずつ備蓄を増やしたりしている。

新型インフルエンザの恐ろしさは、
その感染率や死亡率はもちろんだけれど、
助け合えない、というところが私には特に怖い。
地震などの災害であれば、被災地以外からの支援が期待できる。
けれど、パンデミックフルーになってしまったら、
どこからも支援はこないのだ。
それぞれの国は、自国のことで精一杯になる。
それと同じように、
ひとつの家族はその家族のことで精一杯になるだろう。
 生物として、人類全体の存続が第一義となる緊急事態の時、
誰かが、どこかで生き残る確率を増やすためにも、
それは仕方のないことだと思う。

感染率、ほぼ100%のインフルエンザウイルス。
致死率は60%を越えている。
完全看護、タミフルや人工呼吸器など、
最高の医療とされているものを受けての死亡率が60%以上なのだ。
想定される患者数に対し、
タミフルも人工呼吸器も全く足りていない現状。
パンデミックフルーが来れば、
医療機関は麻痺するとも予想されている。
その状況に陥った時、致死率は一体どの位になるのだろう。

目の前で見知らぬ人が倒れた時、
私は恐怖で近寄ることも出来ず、逃げ出してしまう気がする。
そして、逃げ出した自分を許すことも出来ないと思う。
そんな時は、死への恐怖が、
罪悪感や慈愛の気持ちを封じ込めてくれるのだろうか。
絶望の麻痺が、心と行動の均衡を守るのだろうか。

自分が咳き込んだ瞬間に、周囲の人が逃げ去ったとしても、
私は悲しまない準備をしなければいけないだろう、とも思う。

人間は群れの動物だから、
死が怖くて自分を守ろうとする本能と同時に、
一人で生き残りたくない、と感じる本能もあるはずだ。
大事な人が感染したにしろ、自分が感染したにしろ、
その人のそばにいたいと思うだろうし、
その人に感染させたくないとも思うだろう。

そんな心のせめぎ合いは、どんなにつらいだろうか。
OTTOが「備蓄リストにウイスキーを入れてくれ」と言う。
「確かに必要だね」と私は答えた。


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新型インフルエンザ情報リンク紹介

■国立感染症研究所感染症情報センター インフルエンザパンデミック

■新型インフルエンザの"リアル"を語ろう

世界保健機構(WHO)新型インフルエンザ対策を担当する、
インフルエンザ協力センター
センター長 田代眞人氏のインタビュー。
私にはとてもわかりやすかった。

■鳥インフルエンザ直近情報
小樽市保健所、外岡立人氏のサイト

■Berita Flu Burung (インドネシア 鳥インフルエンザ情報)
インドネシア在住の方のブログ

■地域レベルのパンデミック・プランニング
(国立病院機構仙台医療センター臨床研究部ウィルスセンター)
「小~中規模市町の守り」や「田舎を守るということ」など、
興味深い視点での具体的なプランニングが紹介されている。

水栽培 

人参


野菜の残り部分を、時折、水栽培する。
お正月用に買ったセリも、先月くらいまで育てていた。
食べる訳ではない。
伸びてくる葉の様子を見ると、なんだかいじらく、
捨てるに忍びなくなる。
写真は今、育て中の人参。
不思議な生物のよう。

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