OIKAWA,Satoko blog

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今年は 

現在、河北美術展が開催中。
河北美術展というのは、宮城県でとても有名な公募展。
私も宮城に戻ってから、これまで出品していたのですが、
今年はいろいろ考えるところもあり出品していません。

そのため「出していないの?」等、
お問い合わせや、ご心配などいただいております。
お気持ちありがたく思っております。
健康状態は申し分ありません。
制作の方も、これまでと違う「薄氷」のシリーズの新作を進めているところです。

今後の発表の予定は、
宮城県内
・北の気鋭展
 宮城県民会館(仙台)
 '08/6/4-6/8
東京
・新世代への視点 2008 小品展
ギャラリーなつかb.p.(東京)
'08/7/28-8/9(8/3休廊)
              です。

いずれも、小品ですが、自分なりに新しい展開を試みた作品を出品する予定です。
また、182cm×182cmの大きめの作品も、昨日、大下図が完成しました。
元気に制作にいそしんでおりますことを、ご報告。
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美術の窓 5月号 

4月19日発売の「美術の窓」2008年5月号、
「注目の新人アーティスト159人」の39ページ、
評論家・ジャーナリストが選ぶ12人のコーナーに掲載していただいています。
本屋さんででも、開いていただければ幸いです。

この記事の脇に、小さく自己紹介のスペースがあって、
あらかじめ編集者さんからアンケートいただいていました。
尊敬する人とか、好きな映画とか、好きな本とか項目があって、
その解答の中から、編集者さんがいくつか選んで載せてあるようです。
ちなみに「好きな作家・村上華岳、速水御舟、日高理恵子」
「好きな本・漢和辞典」「尊敬する人・テンプル・グランディン」
などが選ばれていて、
「好きな映画・刑事コロンボシリーズ」は選ばれていませんでした。
相当に正直な、実に私らしい解答だと思うのですが、
確かに、好きな映画がコロンボでは、シリアスさに欠けるのでしょう。

そらのむこう と ホヤ と 花丸 

ぼんやり空をながめていて思い出すことのひとつに、
幼稚園時代の夏休みの宿題がある。
「そら の むこう は どんな せかい でしょう?」
というような質問に、絵を描いて解答するもの。

ミッション系の幼稚園だったことを考えると、
理想の解答は、神様や天使のいる天国だったのだろうと思う。
しかし、私は迷わず、地球や月や土星など「宇宙」を描いたのだった。
土星の輪も、月のクレータも、子供ながら詳細に描いた。

その絵には、幼稚園の先生が、
「よくかけました」の言葉と共に、
大きな花丸を付けてくれたから、
私は大正解を描けたのだと思っていた。
と、いうか、花丸に関係なく、
私は自分の描いた「そらのむこう」に大いに満足していた記憶がある。

大学生の頃にも、似たようなことがあった。
洗礼を授けて下さった神父様と、
海の幸が豊富な街を車で走っていて、
ふと「ホヤ」の看板を見つけた私は、
「ホヤみたいな、海百合なんかがほ乳類にとって祖先らしいですね」
と、言った。
神父様は、何とも言えない表情になりつつ、
「科学者は面白いことを言うなぁ」と、仰ったのだった。
何年後かに、カトリックと進化論は、
相いれないとされていることに思い当たり、
それで神父様はあんな顔をされたんだな、と気がついた。

修道会の小さな冊子に、文章を載せさせていただいたことがあって、
その時にも、私は進化論について書いたりしていた。
私には、科学や物理と信仰はちっとも相反したりしない。
子供の時からそうで、今でもそうだ。

そらのむこうには、無限に広がる宇宙があって、
いつの日か収縮して消え、また広がり始める。
人間は、塵から創られて、塵に帰る。
それらのことは、どこまでも配慮の行き届いた、
巨大なシステムとして機能している。
私はその機能を思う時、畏怖の念を覚える。
同時に、機能の中に塵のひとつとして位置し、
生まれて消えることに、安らぐのだ。

そんなことを思いつつ、空を見上げ、
私は、私の宇宙にもらった、大きな花丸と、
「よくかけました」の言葉を思い出す。
そして、これからも、自分の宇宙を描こう、と思う。

薄曇り 

薄曇り2
薄曇りの中、桜を見上げる。

薄曇り

こんな細やかな階調を、
絵の中に出せたらいいのに、と思う。

私の絵については、
弱いとか、浅いとか、大人しいとか、いろいろ言われる。
先日も、地元新聞に「やや弱い」と評されていた。

問題は「弱い」ことなのではなく、
「やや」弱いことなのだと思う。

私自身が、淡さ、微弱さ、薄さに惹かれているのだから、
それをむしろ、徹底的に明確にすること。
はっきりと淡く。
決然と弱く。

補正しない 

このところ、スケッチを続けている。
描いたスケッチを作品にしようと思っているわけではなく、
自分がどのように対象を見ているのか、
それをよく自覚したいと思ってのことだ。

ある程度離れた距離のものを描くのであれば、
重なりの手前と奥とを一度に見ることが出来やすいのだけど、
小さなモチーフを至近距離で捉えようとすると、
なかなか全体を見ることは難しいように感じる。

葉っぱの重なりを描こうと、間近に見れば見るほど、
手前の葉と、背後の葉と、同時に見ることは簡単ではなくて、
必ずどちらかに焦点が合って、どちらかはぼやける。
ほんのちょっと背後の葉を確認しようと頭を動かせば、
もうすっかり見える形が変わってしまう。
これを繰り返していると、
錯視の遊びでもしているような不思議な感覚に捕らわれる。
ちょっと目が回るような感じにもなる。

この目の回る不思議さを、
そのまま画面に定着できれば良いのだがうまくいかない。
描く時になると、視覚情報を補正して、
「絵らしく」まとめてしまう自分に気がつく。

もちろん、見るという行為が本来、
視覚情報を脳で処理することなのだから、
補正してしまうのは仕方ないことなのだけど、
どうにか補正前の、あの不思議感をそのまま写したい。

補正しない。
これがしばらくは目標になるだろう。

風邪声 

しばらく続けて庭でスケッチしていたら風邪をひいた。
風に吹かれ続けていたからだろう。
2日ほど気力なく、鼻ばかりかんでいたが、
昨日には気力体力ともに復帰。
鼻詰まりと風邪声だけが残るのみ。

私は子供の時から、この風邪声状態で
無駄にワーワーと声を出したり、
歌を歌って、いがらっぽい喉の感覚を楽しむのが好きだ。
自分の声がいつもと違うし、
喉や鼻を声が通る感覚も明確に感じられて面白い。

声楽を習っていた時、先生が
「風邪をひくと声が出やすいので、
気分よく歌い過ぎて、喉を痛めるひとも多い」と仰っていて、
やっぱりそうなんだ、風邪の時は声が出やすいんだな、と納得した。

昨日はそんなこんなで、一日鼻歌を歌っていた。
宇多田ヒカルの「ぼくはくま」の替え歌。
愛娘犬の歌、ということで「わたしネル」。

わたしネル ネル ネル ネル
けんかはやだよ ネル ネル ネル
しゃべれないけど伝わるよ
食べれなくても太れるよ
わたしネル ネル ネル デブ

          ……という感じ。

今日はもうすっかり元気なのでスケッチをしよう。
しっかり着込んで。

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