OIKAWA,Satoko blog

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オランダミミナグサ 

暖かになってきたので、
庭の雑草をスケッチしている。
この雑草の名前、やっとつき止めた。

オランダミミナグサ 阿蘭陀耳菜草
学名:Cerastium glomeratum
ナデシコ科 ミミナグサ属
(オランダミミグサとも)

うーん。実に嬉しい。
ネズミの耳のような形をしているからミミナグサ。。
畑・道端に生える2年草で、
明治時代にヨーロッパからやって来た帰化植物なのだそうだ。
日本には「ミミナグサ」という在来種もいるのだけど、
この「オランダミミナグサ」の繁殖力が強いため、
今は少なくなってしまったのだそう。

オランダミミナグサは2出集散花序という育ち方をするという説明を読んだ。
花序というのは、花が茎にどのような付き方をしているか、ということらしい。
「花序」と書いて「カジョ」と読む。

花序には大きく分けて、無限花序と有限花序のふたつがある。
有限花序は、花軸の先端から花芽がついて、順に下位の花芽が咲いていく。
無限花序は花軸が伸び続けながら、花芽が付き咲いていく。
無限花序の場合、先端から遠い花芽から咲いていくことになる。

オランダミミナグサは、有限花序の中でも基本的とされる2出集散花序。
「中央に花柄が出て花がひとつ咲く。
 その脇から花茎が2本出て(仮軸分枝)、その先にひとつ花が咲く」
ということを、繰り返すのがこの「2出集散花序」だそうである。

花は4月から5月に咲くという。
4月5月ともなれば、たくさんの草花が絨毯のように生い茂り、花をつけているから、
私は、オランダミミナグサが、花を咲かせているのを気にかけたことがなかった。
私にとって、もっとも魅力的に見えるのは、
真冬に、氷の下や、解けた雪の間から、顔を覗かせるオランダミミナグサ。
オランダミミナグサは真冬にも枯れない。霜が付いても、氷の下でも、元気である。
雪の下や氷の下から、顔を出しているからこそ、私の目を引いた。

あたたかになって、オランダミミナグサは驚くべき速度で育っている。
冬にはほんの1~2cmほどだったのに、今や10cmを越えたりしている。
じっと見つめると、その背の高さにグラッとくるほど。
ほんの数分、目を離していると、
さっきまで縮んでいた葉が、ピンと伸びていたりする。
理科の番組の早回しのようにニュキニョキだ。
2出集散花序の勢いは、留まることを知らずなのである。
(本気で育つと60cmにもなるらしい)

雪の間を覗き込むとそこにいる、という、
おとなしいオランダミミナグサが愛おしかったのだけども、しかたない。
今年は、オランダミミナグサの花を、見守ってみようと思っている。
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28日 

昨日は、父の車で上京。VOCAを両親と見る。
併設されている上野の森美術館ギャラリーでは、
加藤泉さんの個展が開催されている。
両親共に「(VOCAより)こっちの方が面白い」と言う。
実際、私もそう思ってしまった。
なかでも、頭部が木で身体が布で出来た、
小さなヒトガタがヘンニャリ立っている作品が印象強かった。

その後、両親といったん別行動。
ギャラリーなつかで「多田由美子 展」。
多田由美子さんの作品は、
これまで具象的な図像のアウトラインのようなものを捉えているような作品
というイメージを持っていたのだけれど、
今回はそうとは見えない作品が何点かあって、
その作品が私にはとても魅力的に感じられた。
筆触が心地よく、きらきらと目に響いた。
Gallery≠Galleryで「Gallery≠Gallery クロージング展」
クロージング、悲しいです。
いつき美術で「岩田壮平・阪本トクロウ二人展」。

再び、上野に戻り、東京国立博物館で「薬師寺展」。
会場で両親と待ち合わせる。
日光・月光はもちろんだけれど、慈恩大師像がしみじみと素晴らしかった。
八幡三神座像も良かった。こんなに小さな作品だとはびっくり。
吉祥天像の小ささにも驚いた。
これまで写真集で見ていた写真の方がずっと大きい。
会場には、大きな拡大写真も展示されていたが、
あれほど引き伸ばしてなお、全く破綻無い繊細な線にため息。

「金堂の日光・月光菩薩立像(国宝)がそろって寺外で初公開」
というのが、今回の見どころともされている。
展示の仕方にも工夫がされていて面白かったが、
面白いと思う一方で、やはり仏像は、
お寺の中でないと本来の魅力は感じられないとも思えた。
それは、実際にお寺で見たのが最初だからそう感じるのだろうか。
このことは、今私が気にしている、
宇宙観のことに関係しているような気がする。

とはいえ、これだけのものを一同に見ることが出来るというのは、
やっぱり素晴らしいです。東京は良いです。
…あ、その意味で、本来的に素晴らしいのは、薬師寺のある奈良ですね。

ミクロとマクロと中間点 

私が最近、考えることといえば、
だいたい「宇宙」のこと。
宇宙について考えていると、
あまり人間には興味が向かない。
これってどういうことかな、と、家族会議してみた。

人体の中も、ミクロの視点で見つめると、
それ自体が宇宙だ、とよく言われる。
マクロの視点で世界を見れば、
人間はほんの小さな、塵芥のような要素に過ぎなくなる。
人間を人間として見るためには、
ミクロとマクロの中間点のようなところに立つ必要がある。
寄り過ぎても、離れ過ぎてもいけない。
つまり、問題は立ち位置なんじゃないか、と話は進んだ。
(その立ち位置はとても狭いもので、
 ほとんど点と言っていいほどのものじゃないかと思う。
 その一点を、全てと思い込む勢いで、
 人間は人間のことばかり考えているように感じることがある)

ミクロの視点で人間を見れば、医学になり、
マクロの視点で見れば、物理になり、
人に照準を合わせると哲学になる、のではないか。
という仮説が結論のようにまとまって、ちょっと面白かった。

これらのことをもとにして、例えるなら、
顕微鏡と天体望遠鏡で世界を見ることに、
今の私は興味が向いていると言えるだろう。
そこには感情や思惑、
意味付けのようなものが映らないように思えて安心するし、
自分という課せも、解体されたり、塵芥になったりして爽快だ。

人間から照準を外した立ち位置で、電車から外を眺めたりすると、
どこもかしこも人間の住み処ばかりで、
地球って異様なんじゃないか、などと思えてきたりする。
こんなにいっぱい人間ばかり多かったらまずいのじゃないか、
なんて心配になってみたりする。

そんな時は、
「でも、プランクトンなんか、
海水一滴の中に、すさまじい数いるから、まだ大丈夫」
とか、イメージしてほっとしたりしている。

極上ネルたまご 

今日は復活祭。イースター。
我が家では「たまごの日」と呼んでいる。
卵を茹でて、OTTOとそれぞれ絵を描いてみた。
私のほうは、まぁ普通に可愛い天使と愛娘犬に仕上がったのだけど、
OTTOの卵が、なんだか驚異的に素晴らしい卵になった。

聡玉
これが私の卵。

そしてこれがOTTOの卵。
題して「極上ネルたまご」。
ネル極玉

ネル卵
おなかに並ぶ6つの点はお乳です。
ネルと卵


3月21日で10歳になり、堂々のシニア入りをした愛娘犬は、
基礎代謝も落ちてきたらしく、どんどん樽太りしている。
赤玉たまごを見た途端、OTTOはたまごが愛娘犬に見えたらしい。
極上ネルたまごを机の上で回すと、
散歩に行く時喜んで、グルグルまわる愛娘犬にそっくり。
お腹を抱えて笑ってしまった。

どうしよう。
食べられない。

13日、14日、15日 

搬入

13日はVOCAの展示。
私の作品越しに見えるのは、展示をしてくれているヤマトの皆さん。

搬入2

何人も、かかりきりになって下さいます。

14日には、東京学芸大院時代の先輩と共に、
ずっと行きたいと思っていた、日本橋の「かみ屋」さんへ行く。
材料は純国内産のみ、薬品による漂白や着色剤は一切行わず、
出来る限り古典的な製法と材料で製作した大紙という「かみ」を製造販売されている。
厚口、中口、薄口、触らせていただき、それぞれを購入。

その後、GALLERY TERASHITAで「今澤 正 展」を見る。
今澤さんは、造形大学時代の同級生。
色の微妙な対比によって、不思議なハレーションを生み出すのが、
今澤さんの作品なのだけれど、
今回のハレーションは、私にとってこれまで以上に強く感じられた。
ずっと見ていたいと思う求心力があるのに、見ていようとすると、
目から始まって頭の中まで、強烈なハレーションに襲われ直視できない。
直視できないのに、どうしても見続けたい、というジレンマ。
だんだん、指先の方まで痺れてくるような気持ちになった。
数日経った今も、作品を思い出しただけで、頭の中に光がちらつく。
あんなにも優しい色合いと肌合いを持ち、
一見、実にシンプルな図像でありながら、
あの強烈な知覚経験を見る人に与えられるとは。今澤さんは凄いと再認識した。

次に、現在VOCA展にも出品している、
堀由樹子さんの個展「道草」を、Gallery 千空間で見る。
通い馴れた道だって、いつも新しいものを探して歩いている子供のような、そんな目を、
堀さんは持っているんだな、と思う。

15日にはGallery Jinで、播磨 みどり " 外傷-内傷 " Midori HARIMAを見る。
幕内政治さんのブログで、この展覧会の情報を見、興味を持って、
Gallery Jinのサイトに飛び播磨さんの紹介ページで心を鷲つかまれてしまった。
播磨さんの作品は、人物や動物などの画像がコピーされた紙を、
張り子のように立体にして作られている。
それらに、時には薄く透けた布がかけられたインスタレーションである。

私には「私の自我は風船みたいなもの」という思いがある。
内側から膨らむ意識や感覚と、
外側からのさまざまな圧力との境にある、
ほんの薄い膜のようなものが自我、というイメージだ。
内側と外側には物ではなくて気体のようなものが満ちている。
その風船の膜は、まるで両生類の皮膚のように透過性があって、
内側と外側の気体は絶えず静かに行き交う。
かすかな呼吸をしているみたいに。
自我というより、
賢治に倣うなら「わたくしといふ現象は」という感じかな。
そんな私にとって、播磨さんのインスタレーションには、
「あぁ、そうです。そんな風です」という気持ちにさせられた。
私が、時に人に説明して、理解を得られなかった、
「わたくしといふ現象」が作品にされているように思え、
とてもびっくりしたし、嬉しくて泣いてしまおうか、とすらちょっと思った。
イメージの中には暴力のようなものも含まれているのに、
作品を前にすると、とても安らぎ、落ちつくから不思議だ。
私という現象の、呼吸がゆっくり、深くなるような気持ち。
" 外傷-内傷 "
「内側と外側の気体は絶えず静かに行き交う」
と私が感じるところに、
播磨さんは「傷」を用意している。
それは痛々しいはずなのに、なぜか救いのようで、
見ているうち、やっぱり泣いてしまおうか、
と、思うのだった。

※ただし、播磨さんの作品は、
マスメディア等からの既成の画像を、
紙にコピーしたものを使用する点も大事なことで、
情報社会というものが、そこには関わってくる。
私の「わたくしという現象観」はひどく内向きなものなのだけど、
播磨さんの作品はそれとは違い、
現代社会が強く認識させられる作品である。

展示のお知らせ VOCA 2008 

ちょい

3月14日から上野の森美術館でひらかれるVOCA 2008に出品いたします。

VOCA 2008
現代美術の展望「VOCA展2008 -新しい平面の作家たち-」

会  場: 上野の森美術館
会  期: 2008年3月14日(金)~3月30日(日)会期中無休
開館時間: 10:00~17:00(金曜日のみ19:00閉館)
※入場は閉館30分前まで
入場料 : 一般・大学生:¥500、高校生以下:無料

全国から推薦を受けた36名の作品が展示されます。
今年は宮城県からふたり、私と椎名勇仁さんが出品します。
東京造形大学で、一学年違いの堀由樹子さん、
リンクさせていただいている阪本トクロウさん、
先日のギャラリー山口でのグループ展で、
ご一緒させていただいた水村綾子さんも展示されます。

VOCA展のありようについて、さまざまな意見も聞きますが、
私個人としては、こうして地方で制作していながら推薦いただき、
大きな舞台での展示をさせていただけるのはありがたいことだと思います。
「このひとの仕事良いな」と常々思っている方々と、
同じ空間に展示させていただくのも、とても嬉しいです。

明日は、展示に立ち合わせてもらうことになっています。
出品作品とは2ヶ月ちょっとぶりの再会なのでドキドキです。
シンポジウムなどにも出席するので、帰宅するまで数日、ブログはお休みします。

画像は制作中に一部を思いきり斜めから見たものです。
会期中は天候も良いとの予報のようです。
早春の上野公園、ふらりと足を運んでいただければ幸いです。

                     及川 聡子

せめて 

もう長らく慢性胃炎。ここ1,2年は、夜中や朝方ひどい痛みに襲われることもある。
先日、朝方に痛みがやって来たので仕方ないなと観念し、病院に行った。
久しぶりに血を取られたりして、病人気分を味わい、
(私の血管は父親譲り、しっかりはっきり盛り上がっているので、
 看護婦さんには愛される血管です。仁王さんばりです。)
胃酸を押さえる薬など処方された。

ひどく傷むのは、胃酸の出過ぎか胃痙攣だろうとお医者さん。
原因は何となくわかっている。
今回の場合、週末から始まる展示を控えての緊張だ。
作品は去年末に搬入しているから、もう3ヶ月くらい作品を見ていない。
この「しばらく見ていない作品が展示される」という状態が緊張を呼ぶ。

そして、昨日。とてもとても嬉しい電話があった。
嬉しくてドキドキ、声も1オクターブ高くなるようなお話。
嬉しいというものひとつの刺激だから、それが大きいと胃に影響するようだ。
電話を切った後、水道の蛇口を開いたように胃酸が放出されているのを感じた。
私の胃にはエイリアンがいて、濃硫酸を吐いているのだな、などと想像。

週末からの展示に関して、
「いよいよですね。ドキドキですか?物おじしない貴女だからきっと平常心でしょう」
という応援のおはがきもいただいた。
感謝しつつ「物おじしなく見えるのだなぁ」と思う。
そういえば、膝ガクガクで及んだ教育実習の授業の際も生徒に、
「センセ、ちっとも緊張しないな」と言われた。
「緊張してるよ、足も震えてるよ」と答えると、
「ウソだぁ~」と全く信じてもらえなかった。
私は眉が太くて、頬が赤く、色が黒く、デフォルトが笑顔だから、
体調が悪くても、機嫌が悪くても、緊張してても、
「楽しそう」に見える、損か得か分からない外見をしている。

普通に星占いなら獅子座だが、精神を司る月の星座は乙女座の私。
猛獣の中には、乙女がいるのです。

「でも、物おじしたって、気を使ったって、
 凶暴だとか、物おじしないって見えるんだから、
 堂々としてればいいんだよ。そのほうが"らしい"んだから」とOTTO。
一体どんなのが「らしい」のか?と問えば、
「自由奔放」と答えが返ってきた。

私の中に潜むのは、エイリアンなのか乙女なのか。
せめて、見てくれは、可愛いDandelionでいたいけど。

KY 

昨日、テレビをつけたらNHKで教育についての討論をしていた。
学力の低下と、学力の二分化(=出来る子・出来ない子の格差)をどうするか、
というようなことが議論されていた。
しかし「今、何を議論しているのか」とか、
「この議論から、何かしらの方向性を見いだそう」
などと思っている参加者はいない様子。
てんでばらばら、言いたい時に、言いたいことを言ってばかり。司会者は大変。
長い雑談が繰り広げられ、時間が来て終了という感が否めない番組だった。

私は議論の際には前提がはっきりし、
コンテクストが参加者に共有されていないとと辛抱たまらなくなる。
言葉はいつも曖昧で、多義的で、びっくりするほど個人的なものだ。
私が「犬」というのと、隣のおじさんがいう「犬」は絶対に同じではない。
前提の「犬」を決めないと、犬については語り合えない。
世の中の雑談は、だいたいこの前提の「○○」がはっきりしない。
これが私には非常につらい。
「その○○は、こういう○○についてですか?」と、
確認を取ったりしたら、雑談にならない。
水を差した揚げ句、嫌われるのがオチである。
だから、あらかじめ前提が了解されているというのが、雑談の基本なのだろうし、
それが「気のおけない仲間」であり「共同体の一員」の証でもあるのだろう。

KY、KY、というけれど、
「空気」がどんなもので、どう「読む」のが正解なのか、
私は多分、あまり分からない方なんだと思う。
まずはルールを定義して欲しいなぁ、などと思う「空気読めないヤツ」なのである。
「私は○○だと思うんですけど、違いますかね?」などと聞かれて、
違うと思ったから「違うと思います」と意見を出し、
相手の反感を買ってしまったこともある。
疑問を提示した形で、同意を求めていたと気づき、ビックリしてしまった。
同意して欲しいなら、そう思いませんか?と、まっすぐ投げて欲しいものだ。

答えとは行かないまでも、
話すことで、何かが見えてきたり、相手と了解しあうことが見いだせたり、
逆に、互いの違いが明らかになることが、
私にとって「話すことの意味」なのだと思う。
容易に、あらかじめ共感が約束されているなら、
並んでぼんやり空でも眺めていればいいじゃないの、と思ったりする。

だけど、世の中、大半の場合、
話す内容に意味があるのではなく「話し続ける」こと、
「話すという行為自体」に意味があるみたいだ、と気がついたのはこの頃だ。
それと、暗黙の了解を共有している安堵感を感じあうことが、
雑談の醍醐味だというのも最近分かってきた。

そんな私も、我が家の愛娘犬とは、散歩中、よく暗黙の了解の共有をしている。
散歩の喜びが高まると、彼女はくるりと振り向いて、
「ねーッ♪」と、笑う(本当に笑う)。私も「ねーッ♪」と答える。
「ねーッ♪」は「楽しいよねーッ♪」の「ねーッ♪」だ。
彼女と私を取り巻く空気には読むほどややこしいルールはない。
並んでぼんやり空を眺める我らである。

Pink 

ごく「普通のこと」と思いながら、
岩絵具を多用して絵を描いていた頃、
自分は色彩感覚がにぶいのではないか、とずっと思っていた。
頭の中で思い浮かべたイメージは澄んでいるのに、
仕上がった作品の色は重く沈んでいることが多かったからだ。
我ながら、でき上がった作品を見て苦しくなるばかりだった。

ほとんどを墨で描き、胡粉を施して仕上げる、
ということを始めてから、絵を描くのがとても楽になった。
墨と胡粉のモノクロームの中に、
自分の色のイメージはむしろ自然に反映されているように思えた。
仕上がり直前に、どうしても実際に置きたくなる色だけを、
ほんの少し、画面に差す。それで充分。
……というか、むしろ、そのくらいのほうが、
自分の思い浮かべるイメージの色になると気がついた。

もしかして、自分は色が苦手だったのではなくて、
岩絵具のザラツキが苦手だったかもしれないと今は思う。
岩絵具の材質感を苦手にしているに気づかず、
「普通のこと」「当然のこと」と思って、
それを使用していたなんて、馬鹿馬鹿しい話である。
岩絵具に対しても、失礼なことだ。

疲れている時、街中に出ると、
行き交う人の服の色、並ぶ商品の色などが、
洪水のように自分の中に流れ込んで来るようでめまいがすることがある。
匂いも音もないまぜになって、何がなんだか混乱し、
行きなれた道で迷子になることもしばしばだ。
そんな私が、鮮やかな色と材質感を、
コントロールしきれないのは当然だったのかもしれない。

街中に住んでいた時から、私は雪の日が好きだった。
色とりどりのビルや看板が雪に覆われると、街が大人しくなって良かった。
雪は音も吸い込むから、雪の日は都会であろうと静かになる。

長年、鮮やかな色や材質感に混乱してきた私には、
墨と胡粉、少しの顔料で、雪や氷を描くことが、
色に対するリハビリのような作用になったようにすら思う。

昨年の春、黄色が使いたいな、とはじめて思った。
福寿草や、ロウバイのような、春を告げる黄色を間近に見て暮らしたからかもしれない。
一年経った先日、藤黄を作品に使ってみた。
ごくごく薄く溶いた黄色を大人しめに染めた。

今年になって、私はピンクが好きになった。
最近は、財布やハンカチ、おやつにだってピンク色のものを選んでいる。
子供の時から嫌いな色の筆頭だったピンク。いかにも「可愛い」のが嫌だった。
なのに、ピンク色を見ると、パッと多幸感が沸くのが不思議だ。
ストロベリー味のおやつを買うたび、
「今日も、可愛いのを摂取して可愛くなろう」などと私が言うので、
「もしかして、やっと第2次成長が始まったんじゃないの?」
と、OTTOが笑う。

藤黄と共に買ったコチニール。
胡粉に混ぜると、綺麗なピンクになるらしい。
一年かけて、私の雪景色には黄色が訪れた。
黄色の次にはピンクだろうか。
桜の開花と私の遅かりし第2次成長。

新日曜美術館で 

アウトサイダー・アートの特集を放送している。

私の好きな作家の作品も紹介されている。
その一人、坂上チユキさんの平面も紹介されていた。
以前、坂上さんの作品を見た時、
その透明で緻密な青の世界にすっかりくらめいて、それ以来ファンである。
以前、絵はがきを購入させてもらった作家も紹介されている。
数年前まで、アウトサイダー・アートは、
特に日本では、まるで福祉の籠の中にあった。
私も、ほんの少しの時間、その籠の中に共にいた。

彼らは、飛び出したのだな。
私はどうだ。



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