OIKAWA,Satoko blog

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黄色 

しょんぼり病が治まりました!

。。。と、いいますのも、
現在、続けている薄氷のシリーズの新作と、
薄氷とは違うシリーズの構想が、浮かんだからです。

でき上がったから、しょんぼりが治ったのか、
しょんぼりが治まったから、構想が浮かんだのか、
そこはよく分かりませんけれど。

あまりに嬉しかったので、
祝杯でもあげようかと思いましたが、
いくらなんでも午前中からそんなでは
身上を潰しますので、
とりあえず、バンザイをしてみました。

私は、良いことを思いついた場合、
よくバンザイをします。
あの、グリコのマークのおじさんのように
両手をYの字に上げる訳です。
ひとりっきりでもやっています。
愛娘犬は私のそういった奇行には馴れていますので、
眠そうに見上げているだけです。

「これまでと違う作風のものを」と、
個人の方に制作依頼をいただいており、
また、今年は暖冬で、薄氷もなかなか張らず、
新しいテーマを
模索しなければいけないことになっていたこの頃。
といって、薄氷のシリーズも
まだまだ深めたいと思っているし、
急に違うテーマと言われても、
夢の続きのように、心が薄氷を追ってしまうので、
非常に、悩んでおりました。

ここ数日、宮城は良い天気が続いています。
父のアトリエのある山に行き、
大好きなロウバイの枝ぶりから覗く、
鮮やかな青空を見ているうち、
新しい展開の芽を見付けられた気がしました。

春は、黄色。
どこか、苦味のあるような黄色。
ロウバイ、福寿草、水仙、ふきのとう…
私はふきのとうを食べるのが大好きです。
茹でて刻んでいる時、
あまりの香りの良さに、
つまんで食べてしまうこともあります。
野菜よりも、純然たる草の味を感じます。
やわらかくて苦く、
内蔵が微かに一瞬ギュッと縮むように感じます。
それは、植物が春になって、
土や枝から、芽を出す時の
ギュっと押し出す力に似ているのではないか、
と想像したりします。

あのギュッとした感じ、苦い黄色。
それを視覚化するのは難しいけれど、
これからの課題に据えてみたいと思います。



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もう少し 雪が降ればいいのに 

yuki3.jpg

子供の頃、私は
夏休みとか、冬休みが始まると
きまって風邪をひいたものだ。
元気はつらつを煎じ詰めたような子供の私は、
学期が終わった途端、パタリ!と寝込む。

そのサイクルは大人になっても続いていて、
なにか熱心に取り組むと、
それが終わってから、パタリ!が来る。

今がちょうど、パタリ!中。
最近は風邪にはならない代わりに、
しょんぼり病に陥る。
理由もなく、なんだか寂しくなるのだ。

寂しい時は、立体作品を作ると落ちつく。
触って、そこに何かが在る、と
実感しながら制作をするのは、
私にとって、安心感につながるのだろう。
と、いうわけで、
小さな人形を作ってみたりしているここ数日。

人形制作の道具がいくつか足りなくて、
DYIのお店に行った今日。
DIYのお店は、私の癒しスポットである。
ドリル、トンカチ、ボルト、ドライバー、接着剤…
それらが、整理されて並んでいるのを眺めると、
どういうわけか心がほのぼのしてくるのだ。

道具を並べて、
少しの日数、のんびり
可愛いものを作って遊ぼう。
お気に入りの曲を流しながら。

そんな日は、雪が降ると最高なのに。
雪は外の音を吸い込んでくれて、
ひとり遊びにひたらせてくれる。

たとえ静かでも、
ザワザワと心の奥が騒ぎだす春も、もう間近。
それまでの間に、
あと少しだけ、雪の日があれば良いのにな。

感謝 

2月11日、宮城県美術館にて、
想像をはるかに超えた
たくさんの方にお集まりいただき、
アーティストトークが無事終了いたしました。
お忙しい中をご参加下さったみなさま
本当にありがとうございました。

展示をすでにご覧下さっていて、
ぜひ、描いた人の話を聞いてみたいということで
再度、トークに合わせ会場に来て下さった方もおられ、
本当に感謝いたしております。

アートみやぎ2007」は、ポスターを
街のあきこちに貼ってもらっており、
地元のNHK放送局でも
毎日CMが流れているそうで
(わが家はテレビアンテナがないので見られず残念)
それらから私の名前を見付け
「この及川聡子って、あの及川?」と
高校時代の先生が来て下さったり、
幼なじみもやってきてくれて
十数年ぶりの再会ができたことも、とても嬉しかったです。

また、ネットを通して知りあえた方とも
はじめて実際にお会い出来たりもしました。

トーク中は、自分の思いをお伝えすることで一杯で、
お集まりいただいたみなさんのお顔などの様子を
認識する余裕はなかったのですが、
1時間に及ぶ時間、みなさんが
とても熱心に耳を傾けてくださったという空気を
強く感じることが出来ました。
その感覚は今もしっかり残っていて、
とても励まされる思いがいたしております。

また、質疑応答の際には
貴重なご意見を含んだご質問もいただき、
あの場で、自分自身たくさんの気付きを得ましたことにも
とても感謝いたしております。

これからも、精一杯制作に励みます。
ご支援の程、今後ともよろしくお願い申し上げます。

アーティストトークのお知らせ 

宮城県美術館におきまして、
アーティストトークをすることになりました。
お時間ございましたら、お気軽にご参加くださいませ。

日時:2月11日(日)午後1時~

アートみやぎ2007の観覧券をお求めのうえ、
2F展示室入口にお集まり下さい。
(一般800円/大学・高校生400円/小中学生300円)
トーク当日は、半券のご提示により展示室への再入場ができます。

夢の話 

宮城県芸術協会会報に寄せたエッセイ。
せっかくなので自分のブログにも載せようと思います。

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友人から、こんなメールが届いた。
「夢の中でこれが夢だと判ることってありますか?
そんなとき夢の中でどうしてますか?」

夢の中で「これは夢だ」と気がついた時、空を飛ぶと飛ぶことが出来る。そして、夢の中で飛んだその感覚をしっかりと身体と意識に記憶させると、現実世界において何かにチャレンジする時の支えになると聞いたことがある。夢判断の応用編のようなものだろうか。その効力について、真偽の程は分からない。でも、飛べるなら、夢でも構わない。飛んでみたいな、と思う。

けれど、夢の中で「これは夢だ」と気がついた時、私は飛ぼうとはしない。夢の中で夢だと気がついた後は、ひたすらさまざまなものを凝視するだけだ。夢の中は、どこまでも色が綺麗で、見れば見るほど細部まで見える。一瞬で俯瞰の視点を取ることも出来るし、顕微鏡のように観察することも出来て面白い。だから、ついつい見ることに終始して、飛ぶことは忘れてしまうのだ。そして、その夢の事象を醒めても覚えていられるように、必死に記憶しようと努めることで精一杯になってしまう。

私の夢は、いつも総天然色仕様。音や味覚、触覚もある時もあるけれど、大抵は圧倒的に視覚優勢だ。視覚の中に、触覚も味覚も聴覚も吸い込まれたような世界である。
以前見た夢に、海辺の夢がある。私はホテルのベランダにいて、海を見ている。海辺は遠いはずなのに、目をやれば白い砂つぶもはっきりと見え、海の中には赤松の生えた小島も同時に見える。砂粒を凝視していると、波が寄せてきて、細かで真っ白な波の泡が鮮烈に目に飛びこんでくる。遠景と近景が交差する不思議な夢だった。波の音はしない。潮の香りもしない。ただ、見えるものは細部まで鮮明なのだ。間近なものも、遠いものも。砂も、赤松の幹も、海の泡も。

絵を描く時には、そんな視覚でいたいと思う。全ての知覚を視覚に変換して、どこまでも鮮明に視ることができたら、夢も現実も同じように感じられてくるのではないだろうか。
今、制作中の絵に、私は「視」というタイトルを付けようと考えている。(※現在、アートみやぎ2007に出品中)足下の氷の下の雑草を、大きな画面に描くという、最近続けているシリーズの1枚である。手のひらほどの景色を、大きな画面に拡大して描くというもの。
客観的には「拡大」だけれど、私の中では決して「拡大」ではない。顔を近づけて氷の下の雑草を凝視する時、氷と雑草は私の視野の全てに広がる。小さなはずの世界が、視野の全てを覆う時、それはどこまでも広がる大きな世界となって、それを見つめる私を飲み込む。飲み込まれた私は、夢の中の、遠景と近景、ミクロとマクロが入り交じる感覚を感じる。そして、現実にそこに在る事象と、私の記憶に残る夢の事象とが重なる。

夢の中で飛ぶ練習が、現実世界でのチャレンジ力を養うように、夢の中で凝視することが、現実世界での知覚を研ぎ澄ましてくれるということはないだろうか。空を飛ぶ自由さの代わりに、私は見るもの全てにもぐり込むような、視覚の自由を得たい。その自由な視覚を持って、凝視した世界を、描くことが出来るようになりたいと願っている。
そう願うからこそ、私は夢の中で飛ぶことを忘れ、ただ凝視し続けているのかもしれない。

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