OIKAWA,Satoko blog

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嬉しいこともある 

今日は、嬉しいことがありました。
寂しいことや、動揺することが続いていたので、
本当に嬉しいです。

人はそれぞれだから、離れていくこともある。
誤解を解くことも出来ずに、別れることもある。
でも、自分の知らないところで
見守って、評価してくれる人もいるんだと、
そう、知ることが出来た今日。

嬉しいです。頑張ります。感謝です。

そんな嬉しいことって、何でしょう?
まだ、内緒。
少し、成果が出たら発表します。

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「幼い」は「可愛い」 

増.jpg

yae.jpg

前作の創作人形「八重」に、髪の毛を付け直してみました。髪の毛はふっくらとボリュームがあるほうが幼さも増すようです。洋服はAnnette Himstedtさんのお人形「Paula」が着ている洋服を借用。洋服も作れるようにならないといけません。写真を母に見せたところ「このくらいなら手縫いで作れるよ」とのこと。母に習い事をするのも良いなぁ、と、思っているところです。

幼さがますと、嬉しい、というのはどういうことかな。美人を作ろうと思って、18歳位の年齢設定をしたら手が進まず、11歳位に設定し直した途端、イメージがまとまった「八重」。私自身が、幼い状態を理想と思うところがあるのかもしれません。四方田犬彦さんの本で、この心理は、日本人にとても顕著だという説を読みました。子供であることや、幼いことを「かわいい」といって、特別の価値を置く。海外ではあまりないことなのだそうです。
枕草子の時代から、小さいもの、庇護を必要とするものを日本人は愛してやまなかった。確かに、成熟を拒むピーターパンが禁書とされた国とはきっと根本的に違うのかもしれません。でも、一方では、国うんぬんの問題ではないのかも、とも思います。成人することを尊ぶ社会=男社会に対して、庇護して、守って、構って、可愛すぎると食べちゃいたくなる女性の世界が、ずっと守っている価値観なのじゃないか?と、そう感じたりもするわけです。だって、可愛いものは海外にもたくさんありますから。でも、庇護するには、自分は大人でなければなりません。それがつらいところです。

さてさて、可愛いに理屈は野暮というものです。ここのところ、天気も良くて、体調も上向きなので、明日もただただ可愛いものを作ろうと思っております。


卒業製作 

河北展(5月10日最終日)に出品中の「Candy」という絵は、かなり前に描きかけていたものを仕上げた、ということについて先日、日記を書いた。描いていたときも、描き上げたときも「いかんなぁ」と思った。

ryou.jpg
「子供の領域」

toko.jpg
「登校」

この二枚は、私の大学の卒業制作。
はるか~に昔の作品となりました。・゚・(ノД`)光陰=矢デス
「Candy」と同じように、フォトコラージュ、ネガポジ等を利用してたくさんの画像を組み合わせた絵である。稚拙だし、至らぬところはたくさんあるけれど、当時の自分の精いっぱいを感じる。ぎりぎりな感じを思い出す。

立体を創るようになって、人体表現に関しては、平面ではなくて立体にしたいという気持ちが強くなった。平面で表現すると人物が遠くなってしまう。優れた人物画は、描かれた人物が、立体作品よりも、そこにいる現実の人よりも、肉薄して「そこに存在する」と感させるものだ。そうしてみると、自分の描く人物はテンで遠い、と思って気落ちする。
久しぶりに見た、かつて描いた卒業制作の方が、今私が描く人物よりも、ずっと「そこにいる」感があるように思う。やっぱり、この作風はここで終わりとすべきだ、ということだろう。

また友人にモデルを頼んだ。今度は上半身を制作したい。できれば、それを木彫にできたらいいな。触ることができる人体表現。立体というのは、絵画よりも直接的で、私を安心させる。
でも、やっぱり絵も描きたい。自分は貪欲なのかな。見えないもの、触れないもの。聴こえたり、漂ったりしているもの、そういうものはやはり、平面で表現したい。

いずれにせよ「この方法でしか表せない」ということに誠実でなければならない、と思う。行為に必然性があるようでいたい。必然を感じないうちは、道具を手にしないくらいの意気込みで「手段」に対して真剣でいなければいけないのだと、そう思う。






七海はここまでできました 

八重途中顔.jpg

現在製作中の創作人形「七海」。前回の「八重」よりも手足は太く、顔もより幼い。瞳は茶色、ドイツ製の吹きガラスのアイを使用。髪の毛は黒髪、おかっぱにする予定。

八重途中全体.jpg

手が、美しくない。手首の関節球をはさんで手と腕と、きれいな流れにしたいと思う。今日は、手を作り直しているところ。球体関節人形の難しいところのひとつに、彫刻や固定ポーズの人形と違って、手や足の表情を「どうとでもとれる」ようにすることがあるように思う。
例えば足。立っているときと、座ってぶらつかせている足とでは、筋肉も筋も全く違う。それを丁寧に追って、全体のバランスと流れを造るのが人体彫刻の醍醐味の一つだと思う。けど、人形は同じ足、腿、ふくらはぎでありながら、座っているときも立っているときも「それらしく」見えていないといけない。人体を象徴化しないと、人形にならないんだなぁ、とつくづく思う。
顔の表情だけではなく、手足の表情も、人形に対峙する人の想いを映すことができるように「どうとでもとれる」器のような表情にとどめる。難しくて面白い。

八重途中横.jpg

七つの海、という名前だから、おおらかそうな子にしたかったんだけど、なんとなく真剣で内証的な表情をしている七海。…でも、それはそれで可愛い、と思ってしまう親心なのでした。

17年前の約束 

candey.jpg
タイトル「candy」

河北展に展示中の作品「candy」実は、この作品は17年前に描き始めたもの。先生に「こういうものは日本画で描く意味があるだろうか?」と問われ、そのまま筆をおいていたもの。
今年、河北展の搬入日を知ったのは、締め切りの12日前!さすがに今年は出品をあきらめようかと思ったけれど、なにしろ母がすさまじく寂しがるので、ずっとお蔵入りさせていた制作途中の絵を完成させることにした。

candy部分.jpg

この作品は、学生時代、同じ賄い付きの下宿に暮らしていた友人の子供時代の写真をもとにしている。手前の赤いオーバーオールの子が、その友人である。「可愛いね。これ描かせて」と、写真を借りて、17年。写真を借りたまま、この絵に向かう気持ちにもなれずにいたが、やっと描き上げることができたわけである。

昔の絵を描き上げるのは、想像以上につらいものがあった。過ぎてしまった問題意識を掘り起こしたところでワクワクはしないものだ。ワクワクしないで描くのはつらい。
ただ、久しぶりの人物だったので、それがちょっと楽しかったかな。とはいえ、今ならこのテーマは選ばないし、こんな風にも描かないな、と思いながら描くのは、制作というものに失礼なので、やっぱりしてはいけないことだったと思う。ただし、マチエルに関しては、ちょっと今までやったことのないことをしてみたので、これは面白かったし、次につながることだろう。

入選したことでほっとする気持ちよりも、今回は約束を果たしたことへの安堵感が何よりも大きく感じられる。「やっと描いたよ」と、借りていた写真を添えて手紙を書こう。「元気かな。結婚もしているし、きっと子供もいたりするんだろうな。17年、大事な写真を借りっ放しにていてごめんなさい。でも、忘れてたんじゃないんだよ。大事に、いつか、と思い続けていたんだ。」と。


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