OIKAWA,Satoko blog

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
trackback: -- | comment: -- | edit

おばあちゃんの肖像 

地方特有のことなのかどうかは分からないけれど、宮城県に戻ってから聞くことが増えたのが「肖像画」だ。絵を描く友人知人でも、やはり肖像画を頼まれた、という話をよく聞く。会ったことのない、遠い曾おじいさん、曾おばあさん、そのまたお父さん、お母さん…。子供時代、親戚の仏間の壁のそれらの肖像画を見上げ、なにか不思議な気持ちになったものだ。それを、大人になった今、頼まれた。

モデルはすでに亡くなっているので、写真を基に下描きに入る。写真は、その人そのままが写る、と思いきや、実はそうでもない。人は、写真を見る時、気持ちで情報を補てんしている。だから、生前のその人を知らない場合、写真を見ても、家族の人が見るようには、見えていない。

写真に写る時、誰でもちょっとかしこまる。家族が見ているのは、笑ったり、怒ったりする普通の姿。それらは、写真には写らない。写真を見る、家族の心の中に、その姿が喚起される。会ったことのない人を描く場合、家族の方から、日常の姿や印象を聞き、生前の姿を想像しなければいけない。そのイメージを固めて初めて、写真の姿がその人として見えてくる。


逃亡犯のポスターは、写真よりも似顔絵の方がはるかに検挙率が上がる、というのも、ここら辺に理由があるのだろう。また、写真家が撮る写真とは、そういう、写真からとりこぼれるイメージを、残さず刻みつける作品=写真、なのだ、ということも逆に良く分かる気がする。もしくは、目で見えない思いを、写真にすることであらわにする。それは、また絵と違う、興味深い表現だと感じる。絵と、写真。その違いを意識すると、絵の意味、写真の意味への理解が深まる気がする。

ひとりの「おばあちゃん」は当然ひとりの「女性」である。ご主人にすれば、妻としてめとった頃の若々しい姿を思うし、息子にすれば「母」の姿を思う。お嫁さんにすれば、介護のするなかでの姿を思うことになる。一度に説明される膨大な想い出、情報の中から「その人らしさ」を探し、ひとつの姿に統合しなければならない。
 
「これは、絵画として良いのだ」というようなことは、一切認められない。大切なのはただひとつ「その人」になっているか、いないか。答えは自分の中にではなく、相手の中にあるのだ。普段の制作とは180度違う。これはとても難しい仕事だと思う。
と、同時に、普段の制作では味わえない感動もある。他人の姿なら、まぁまぁ似ていれば「似てる」でOKかもしれないが、妻であり、母であり、姑であるとき、そうはいかない。その、真剣さに心撃たれる。亡くした人を思い出す時、誰でも似た眼差しをすることも知った。自分の内側から、面影を探し、今見えていない姿を、確かに見ている眼差し。

先日、肖像画を無事納めることが出来た。その日、その家のお嫁さんは、おばあちゃんを飾るから、と、お花を用意していた。私の絵は、絵としてではなく「おばあちゃん」になって迎えられた、という気がした。不思議な経験である。
スポンサーサイト

Pneuma 

puns.jpg

宮城県芸術銀河:ニュー・アート・コンペティション of Miyagiに出品した作品「Pneuma」について。

タイトル:「Pneuma」

テーマ概略:金箔と墨を主な画材とする平面表現。
箔に墨という「光るもの」「黒」を使いながら、光と闇が対峙するのではなく互いに内包するものとして存在する様を表現したい。また、日本画材を使用し、日本絵画の装飾性やスタイルによりながらも現代における絵画表現の意味を模索することをテーマとする。
(タイトル「Pneuma」は、ギリシャ語で「息吹き」の意。ラテン語の「聖霊」に通じる。)
光と影と
光と影で事象を捉える陰影という方法はカトリックの私にとって表現の手法を越え「光と闇」=「救いと罪」という精神に通じて感じられる。
光を描くために描かれた闇を見る時「救いという概念により罪が生まれた」という誰かの言葉を思い出す。そして日本において「影」という言葉が月の「光」を表すことや、禅画で示される「真理」が光も影もない墨の線一本で示される「円」であることに憧れるのだ。しかし、もとより闇はあり常に光は共にある。ならば、その二つを対峙させるのではなく互いに内包する関係として表現することは出来ないだろうか。

仮象空間の描かれた光と、実空間に降る光
日本絵画には本来陰影はなかったとされる。例えば屏風を見ると確かに描かれた図像には陰影はない。けれど屏風そのものが凸凹の中に影を作り画面に本物の陰影をもたらしている。実際の凸凹と陰影とが相まって描かれる以上の空間が演出されているのに気付くことができる。
西洋でも、ルネッサンス初期、描かれた光ではない光が美術に存在した。自然の光そのものを取り入れるーモザイクやステンドグラスがそれである。ルネッサンス中期以降の人の英知で描かれた光ではなく、光そのものを受け取ろうとするこれらの表現は、美術(建築)において常に実現され続ける聖霊降臨だったと見ることができる気がする。モザイクやステンドグラスは教会建築に多く用いられたが、聖霊降臨日とは教会誕生の祝日であることも象徴的に思う。

光を取り入れるこれら東西美術の共通点は、建築や調度品のように実空間の中の美術という点だ。やがて絵画はそれ自体の価値のみを追求するようになる。西洋絵画は実空間から仮象空間を切り離すため額縁という「枠」を作り上げた。日本が近代、西洋から陰影とともに取り入れたのはこの「枠(=絵画の純粋化)」の概念とされる。屏風や表装、絵巻などから額装に適う形態への移行が進み、陰影がもたらされ、日本絵画においても光と影が描かれることになっていく。

表現の中で叶えたい同一感
祈りの中で私は真理をイメージする。「永劫と瞬間」「光と闇」等、対峙する要素がひとつになるイメージ。白隠の「大円鏡光黒きこと漆の如し」キリスト教神秘主義者十字架のヨハネの「神の暗黒の光箭」「夜を照らした黒雲」という言葉を知り、このイメージが私だけのものではないことに感動した。
常にある光と闇とを英知を越えてただ受け入れるということが、表現の中で実現できないだろうか。描くことで作り上げる光と闇ではなく、闇の中で光を受け光り、またそこに闇が生まれる時、光と闇は表裏一体に存在しうるのではないだろうか。

箔と墨に託すこと
光を受けるものとして、私は箔を選ぼうと思う。工芸的、装飾的と、とかく批判を受ける箔だ。しかし、日本絵画が装飾美術だった頃、金地の屏風は室内に身近な調度品として配置され、自然光や灯りを反射していた。実空間と仮象空間を自由に光が交わる。虚と実の同居。ほの暗い室内の中に描写を伴わない陰影が実現していたことだろう。
仮象空間と実空間を交差する光の上に墨でなおも光を描く、これが私のテーマである。墨の黒は五色を現すと東洋は言う。色は光である。だとすれば、色を内在させる黒である墨は「暗黒の光箭」そのものだとも言えるだろう。対峙する様々な二元的要素が一つになる(「一つ」になった要素は同時に「無数」の要素ともなる。)ことを私は祈りの中で感じる。その感覚の具現化を叶えたい。

犬に憧れる 

neru.jpg

私は、犬が大好きだ。もう、とにかく大好きなのである。自分の家の犬はもとより、散歩で出会う近所の犬も、テレビに出ている犬たちも、雑種であろうが、純血種であろうが、たまらないのである。

聖書の創世記に、最初の人間であるアダムが一人ではさびしいだろうからと、神様が他の動物の中から伴侶を見つけさせようとするところがある。アダムは、何種類かの動物を選んではみたが、そのどれもがいまいちで、結局、神様はエバを作ってくれたのだ、というお話。

私は、この時アダムが選んだ動物の筆頭が犬だったに違いない、と踏んでいる。でなければ、これほどまでに犬と人間が仲良く共存している理由が分からない。しかし、犬の切なさは、同時にこれを起因としている。だって、結局、人間は人間を伴侶にしたわけで、どんなに犬が人を愛そうと、人は人を選ぶのだ。 なのに、犬は犬よりも人を選んでくれる。申し訳ないほどのいじらしさだ。

愛犬と、川沿いを散歩し、クロッキーをしたり、写真、ビデオを撮ったりする。あまり一所に留まっていると、「くぅ~~~ん。(何をしてるの?早く先に行こうよ。)」と言う。紐をはずしているのだから、一人で散策していればいいのに、しばらく自由にしているとつまらなくなるらしい。

とはいえ、私が川を熱心に眺めるようになってからというもの、愛犬にとっても、散歩の充実感は以前より高いようだ。それは時間が長くなったというような単純なことではない。

彼女は私が何を観ているのか、よく分かっている。「あぁ、それね。いい匂いだよね。うん、ここはこうだね。」と、私の覗き込むところを一緒に覗いていたりする。「ねー!」と、共感のまなざしでこちらを見返ったりもする。

愛犬が風の匂いを追って、鼻を高くして胸を反らせているのを見ると、私には分からない彼女たちだけの世界を感じる。音や、匂いは人間のそれの何万倍もの豊かな情報として犬には感じられるわけで、それはどんな世界なのだろうと、憧れたりする。

「ねー!」と、愛犬が私を見やるとき、少し私達の感覚はシンクロする。その感覚が、互いにとっての散歩の充実感を高めているのだと思う。

しかし、彼女はその感覚の世界を当たり前のものとして味わって生き、私はそれを表現しようと悪戦苦闘したりするのだ。どちらが、生命として贅沢だろうと考えると、全く犬の方が潔く豊かだと思わざるを得ないが、どうだろう?

願い 

彼方に普遍の憐れみの音色を感じながら

此処で与えられたものを 推敲なしに

全き 主観で歌うことが理想なのだ

心の清貧の他を望まず

一切の思惑を去らせよう

願わくは かの日に

御手により引き上げられんことを

地に棲む私の祈りが

空に澄む恩寵の響きの中に


この詩は大学の卒業制作作品集に寄せた詩である。 自作の詩というのはちょっと恥ずかしいけれど、この詩に込めた思いというのは、私の心に変わらずある願いなので、 今回はこのことを書こうと思う。

「完璧に美しいものが絶対に在る」という確信と、しかもそれは、「手の届かない高い高いところに在る」のだ、という確信が私にはあって、 それを少しでも証することが、私の制作の根となっている。

しかし、自分の 生きる場所には 「完璧に美しいもの」 は無いのだ、 ということもまた確信している。ただ、時々「完璧に美しいもの」 の残像というか、 残響というか、 そんなものが降り落ちてくるのを 感じる時があるのだ。

気のせい、と言われればその通りだが、私の魂はそれを食べて生きているように思う。
「完璧に美しいもの」を恋い慕って、「高い高いところ」を思うとき、私は静かに耳を澄ますようにする。小さな音を探すみたいに。自分がいなくなるように思えるくらい耳を澄ますと、 ちょっと聞こえるように思うのだ。「完璧に美しいもの」の音色が。

目に映るもの、耳に届くもの一切を 真っ白のまま受け入れられたら、 絶えずその音色を聴くことことが出来るような気がする。まだまだできっこないけれど、 そう生きることを願い続ければ、 死んじゃう頃に その音色が旋律を持って 聞こえるようにならないかなぁ、 と、願っている。

死んだときには、 その旋律の中に入って行けますように、
というのが、私の願いなのである。





中也のこと 

さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂われないですむだらうか、とかと

要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、

僕はあなたがたの心も尤もと感じ
一生懸命郷に従ってもみたのだが

今日また自分に帰るのだ
ひつぱつたゴムを手離したやうに

そうしてこの怠惰の窗の中から
扇の形に食指をひろげ

青空を喫う 閑を臙む
蛙さながら水に泛んで

夜は夜とて星をみる
あゝ 空の奥、空の奥。

中原中也

詩集『山羊の歌』より
「憔悴 �」


中原中也は、私が愛する詩人の一人である。思春期、文庫本の背がほつれるほどに、彼の詩をくり返し読んだ。思春期の感傷は彼の詩によって慰めを得るどころか、ますます深まって私をクラスメイト達から遠ざけたものだった。

今、こうして、この詩を読み返せば、いかに自分が周囲に対し、鼻持ちならない侮蔑を持っていたか、反面、周囲にとけ込めない自分を嫌悪していたかよく分かる。
彼の詩は、ともすれば文学少女用の、感傷に満ちた作品のように受け取られがちだ。しかし、彼の詩を感傷的の一言で評するのは間違である。私も幼いながら、感傷に酔うためだけに中也を読みふけっていたのではない。

彼の詩の大きな魅力であるユーモアは、彼の魂の健全さを示すものだ。その健全さを支えるものはこの詩で言うなら「空の奥」にある「救い」であり、「真理」である。「恩寵」というものかもしれない。
中也の詩には、いつも、届くことのないはるか遠くの「それ」を見やるまなざしが読まれている。 それは、感傷とは正反対の求道的な一貫した強いものだ。 「手が届くことはない」けれど「それ」は確かに「在る」という確信のもたらす力が、中也の「痛みを受け入れ続ける生き方」を支え、読む私をも支えてくれた。魂の健全さの基である。彼の感傷は、この力によって、成り立っている。「届きえない」恩寵は、風や、煙りや、音として、中也のそばに降りてくることがある。彼はそれを歌っていたのだと思う。

私は届かない「恩寵」を見やる中也の態度が、いかにも甘ったれた風情で好きだった。子供のような、すがるような、懐かしむような目線に、私は習い、彼のように手の届かない先に在る「恩寵」に焦がれた。
それが「祈り」なのだと理解した時、私の思春期は終わったように思う。病のような感傷は消え、「恩寵」を求めて心を澄まし、風や、煙りや、様々なものから、いつそれが降りてきても気付けるよう、生きていこうと決意した。

それを中也が詩にしたように、私はそれを絵にできれば、と願っている。

「半島を出よ」村上龍 

村上龍の「半島を出よ」を読み始めた。
彼の「愛と幻想のファシズム」「五分後の世界」「ヒューガ・ウイルス」「希望の国のエクソダス」という作品群が、私にはすさまじく面白い。
これらを読んでいると、本の中の世界があまりに緊迫しているので、読書を妨げる現実社会の事物に対して「それどころじゃないから!!」と、言い放ちたい衝動に駆られる。心は架空の革命の虜である。劇画的だという批判もあるに違いないが、そんなこと言ったって「それどころじゃないから!!」なのである。

愛知万博の影響なのか岡本太郎の本が再販されている。「今日の美術」という名著とされている本が出ていたので、とりあえず読んでみた。現在の感覚で読むと、そう大して驚く内容でもなく、むしろ普通すぎてつまらないくらいだ。あとがきの赤瀬川源平さんがおっしゃるように、現代美術的なものがそこらじゅうにあふれた今は、それを疑ってかかることこそ岡本太郎が当時、この本に書いたことの主旨に沿うことになるだろう。
権威化されたもの、曖昧で生ぬるい予定調和を、簡潔にばっさばっさと切り倒す岡本太郎の言葉は「即効性」を持って当時の若き作家達を力づけたというのは良く理解できる気がした。
覚醒、革命、そして力。

私は多分、革命の中にあったなら掃いて捨てられる方の人間かもしれないと思う。それでも、その渦中にいる緊迫感を想像すると清々しくなってくる。
しかし、美術というのは日々革命の中になければならないもので、私がそのことに鈍感にいるだけのことだ。「それどころじゃないから!!」と、制作以外全てに言い放つ緊迫感を持たなければいけない。

眠れない夜に 

夜中、目が覚める。やらなければならなくて、やっていないことが重なると、いつもそうだ。夜中、というには早朝に近く、朝と言うにはまだまだ暗い、3時半頃が一番多い。

しばらくは自分に「目が覚めたと思いきや、私は速攻眠りの中に舞い戻るのだ」などと暗示をかけてみるのだが、いったん覚めるともういけない。やわらかな眠りのもやは薄らいで、部屋の隅々までクリアーに見えてくる。  
ため息をついて、ちょっと身を起こし、愛犬を探す。大抵布団の端で寝ている。私がそっとなでると、気持ちよさそうに薄目を開けて再び寝入ってしまう。裏切り者、と思いはしても、寝顔も可愛らしいので仕方がない。
東京で学生生活をしていた頃、エアコンもなかったので夏は窓を開けた。私のアパートは道路沿いにあったため、ものすごい騒音が飛び込んでくる。テレビの音も聞こえないくらいだ。

騒音というのは、慣れてくると気にならないものだ。いつもなっている音が、聞くほどの意味のない「雑音」だ、と頭が理解すると、聞こえても聞こえない音として、取捨選択するためらしい。そのアパートには、5年近く住んだ。騒音はいつしか空気のように意識にものぼらなくなった。しかし、無論、私の耳は騒音をしっかり聞き続けていただろう。たとえ脳がそれにマスキングをしていたとしても、音自体は入ってきていたはずだからだ。

あの頃も、夜中に目が覚めることは多かった。開けっぱなしの窓から、ゴーゴーと聞こえる車の音を覚えている。部屋にいるときはテレビはかけっぱなし。意味のない、深夜番組の音は「眠らねば」と焦る気持ちを緩和させてくれた。時計は4時を回り、もうすぐ朝のニュースだって始まる、と思うと、諦めたような、乾いた朝を迎える心づもりが出来た気がした。

柴田に住んでから、夜中に目が覚めると聞こえるのは、カエルの声、虫の音、風の音、雨の音…。それから、信じられないようなスピードを出しているらしい車の音。微量の水分が空気中にあることも感じる。音は空気のふるえだから、水分の量できっと聞こえ方が違うのではないかと私は想像する。確かに湿気を含みながらカエルの声や虫の音が聞こえてくる。

眠りのもやが消えて、部屋がクリアーに見え始めても、青暗い景色はどこかしっとりとして、夜の謎めいた風情が漂っている。耳も眼も、空気に含まれる微細な水分を感知しているのを感じる。「まだ、起きるんじゃないよ」と、部屋の隅で物の怪が言っている気がする。まるで、子供の頃のように。  青黒い闇は明度を上げて、明るい青に移っていく。光りが白く差し始め朝が来る。音を音でマスキングし、聞こえるものを聞こえないと判断していた頃に比べ、私の五感は、間違いなく感度を高めているだろう。

眠れない夜に、そんなことを考えた。

日本画という名前 

柴田町の達人マップ「柴田町の達人を捜せ!」が届いた。私まで達人として紹介いただいている。恐縮である。さて、と、そのマップを見ていておののいた。私が何の達人か、と言う説明が「和画」となっていたからだ。デザイン上、二文字にしたいということだったのだろう。私の専門は「日本画」である。「日本画」という3文字を、いかにして2文字にするか。熟慮の結果「和画」という造語にたどり着いた、と想像される。

「日本画」という名称の歴史は古いものではない。明治初頭、西洋近代主義と共に油絵(西洋画)が全盛となり、日本の伝統絵画が廃れると危惧した、アメリカ人アーネスト・フェノロサや岡倉天心らによって作られた名称である。大正の頃は「邦画」とよばれたりしている。それ以前には、洋の東西という視点がないから、土佐派、四条派、狩野派といった、日本国内での画風の流儀でジャンル分けされている。雅やかな大和絵、墨だけですべてを表現する水墨画、といった分け方もある。大和という名前が出てくるのは、水墨画はもともと外国であるところの中国の絵画だったから、それに対して日本の絵画として「大和」と冠したと想像する。きっと「和画」という名称を考え出した方も「洋」画に対しての「和」画、という発想だったのだろう。

日本画という名称が作られた理由には、強くナショナリズムが関係していて、単に美術の問題とはいえない側面がある。フェノロサと天心は、極端な欧米化策の反省から高まっていた民族主義的な流れの中で、日本の伝統美術を教育する官立美術学校を建てた。このような中で「日本画」は生まれたのだ。

洋画は別名「油絵」である。こちらは画材から由来する名称だ。油絵は、色の基である顔料を油で溶いて、油の力で画面に定着する。日本画は、顔料を膠という動物性のタンパク質で溶いて、画面に定着させるので「膠絵」とよばれることもある。思想的な「日本画」という名称を嫌う人はあえて「膠絵」とよんだりする。膠なんてピラミッドの昔から、世界中の人間が使った画材だから、洋の東西、中国と日本、大和と蝦夷、そんな違いはちゃんちゃらおかしく、無意味になってくる。

「日本画」という名前を嫌う若手の日本画家が最近多い。個性第一主義で育った現代人にとって、国を名に持つことが不合理に感じるのだろう。近代絵画、現代絵画、時間軸でジャンル分けされることが最近は多い。伝統は、時間とは相容れない。日本画は最初から「日本の伝統」を背負ったために時間軸からはずされて、現代美術の外におかれている。そのことが、日本画材を使う若手作家に「日本画」という名前を避けさせていることも大きいと思う。「日本画材を使った絵画」と、「日本の伝統絵画」には大きな隔たりがあるのだ。
 
何とよばれても構わない。私は私の絵を描く。私が日本人である以上、絵はどこかに日本を含むだろう。和を尊ぶ国といわれるからには、どこかに和という要素も含んでいるのかもしれない。現代に生きているなら、伝統を背負った絵画を制作していようと、現代の美術なのだと言い張りたい気持ちもある。
和画、というたった二文字は、私にとてつもなく大きな宿題を与えてくれたように思えてならない。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。