OIKAWA,Satoko blog

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What's Art Galleryでの個展について 

今回の個展は、冬の朝見つけた道ばたの薄氷と、そこに見え隠れする雑草の連作を中心にした。抽象化せず、見えたままに描たのだが、それでも、何枚か描いていくと、薄氷や雑草はその形象から離れて、何ものかに変わっていったように思う。

何かに変わる、というのは、絵にしなくても時々起こる。「これは雑草だ」と思って見ていれば雑草でいるのだが、凝視していくうちに雑草が何ものかに変わるのである。普段は無意識に眼で見たものを頭で解釈して花だ、草だと答えを導くのだが、ただ見ることに集中すると、頭の中にある答えが意味をなさなくなって、きれいな色や形が立ち現れる。頭を通さないで、眼が考えるようになるとそんなことになる気がする。もちろん、比喩ではあるが。
赤い、と思っているものもよくよく見ると、赤じゃない、ということはよくある。日本の子供は大抵決まって太陽を赤く描く。一方、海外の子供は黄色かったり緑だったりすることもある。子供だけではない。きっと日本人の多くは太陽を赤く描くだろう。太陽を赤く染めてしまうのは眼ではなく頭だ。日本人は太陽を赤だと「考えて」いるのである。赤く考えていると、赤く見える。不思議なものだ。

表現をする、というのは絶えず、革命を起こしていくものだと思う。決まり事をひっくり返して、新しい形を再構成する。でも、どんなに「ひっくり返すぞ」と意気込んでもそう上手くはいかない。決まり事というのはとても良くできている。時間と多くの人の知恵によって導かれた最大公約数なのだ。一人の力でひっくり返すことが出来るほど、安っぽいものではない。もっと普遍のもの、もしくは厳然とした現実によってしか、それは解体できないように私は感じている。

良い作品というものには謎がたくさんある。複雑な仕掛けがあるようなものではなくて、一輪、桔梗かなんかがそっと描かれているような絵でも、良い絵というのは何か違う。「確かに桔梗なのに、どこか不思議な気がする」という具合である。でも、それは描き手が桔梗を謎めかせたのではなくて、本来、桔梗は謎なのだ、ということだろう。
この世界に在るものは全て、理解しているように思えてちっとも理解なんかできていない。もちろん、日常を過ごすためには、全てに対して凝視して、意味を解体していたら生きていけない。だから、大体の答えをあてがって理解したことにするのだ。でも、ひとたび足を止めて、何かを凝視すると、すっかりと納得していたはずの答えをするりと外して、謎に満ちた魅力的なものに変貌していく。

意味や答えや決まり事を、ひっくり返そうとムキになるのではなく、むしろ、本来のそこに在るものをまっさらに見つめること、それが表現の源だと思う。オリジナリティーなんて、信じない方が良い。どこまでまっさらに見ることができるか。それが、今後の課題である。まっさらに、身近なものをひとつひとつ見つめれば、世界がどれほど謎に満ちて、魅惑的に広がっているか感じることが出来るように思う。
そんな世界を、絵にすることが出来たら、と願っている。
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再出発 

7月15日に個展〔What's Art Gallery〕が終了いたしました。ご来場いただいたみなさま、本当にありがとうございました。
風邪を引いたので、今日は村上龍の「コインロッカー・ベイビーズ」を再読しながら、寝床で半日過ごした。緊張の続く物語。下がった熱がふたたび上がるようで、これは身体に悪いかも、と思った瞬間、玄関のチャイムが鳴った。注文していた画材が届いたのだ。さあ、始まりだね、と真っ白な筆先が言っている。

村上龍もそうだし、武の映画やクローネンバーグ、塚本晋也など、私はけっこう暴力の物語を好む。怒りは、感情の中で、痛みは感覚の中で、最も純度が高いと私は信じているところがある。優しさや、心地よさよりも、混じりっけ無く思うのである。
「あなたは、自分の欲求や感情に罪悪感を感じて抑圧するけど、なぜか怒りに対しては抑圧しないね」と、臨床心理士の方に言われたことがある。そこを突破口にして、自分を自由にしてみるといい、そんな話だったと思う。
夢じゃないよね?と頬をつねる、というコテコテの定番も、全てが曖昧なものに思えた時、痛みが現実を引き戻すことを根底に成り立っていると思う。
立ち会い前の高見盛がほっぺをバシバシとやる、あれも同じだろう。

今回の発表を終えて、私は私自身に、怒りを覚えた。しなければならないと知っていて、しないでしまっている多くのことに、反省ではなく、怒りを感じた。制作を阻害する周囲のさまざまな状況にも怒りが沸いた。仕方ない、などと言っていられる余裕もないと思えた。そのことは、きっと、良いことだと思う。いたらなさを反省して、しょげてしまうことを繰り返したけど、今回は違う。しょげる気持ちを押しのけて、怒りが沸々とこみ上げる。

…といったって、この私である。切実に力一杯頬を叩いても、高見盛よろしく、みんなの笑いを呼ぶに違いない。それで良い。絵の中に、混じりっけ無いものが立ち現れるなら。

我が家のホラー 

今年、我が家のトイレに大量の蜘蛛の子が発生した。その数たるや、恐ろしい。アンパンの芥子の実のような大きさで、昼間は散っていて、夜になると一カ所に集まっていた。
その蜘蛛の子達が、この夏、大活躍中である。家のあちこちに、大きくなった蜘蛛が巣を作り、どんどん蠅を捕獲している。蜘蛛はメタリックでまん丸な腹を持ち、針のような足をしている。SF映画の宇宙船のような姿だ。
その蜘蛛が、あっっっという間に蠅を捕まえて、鮮やかにぐるぐる糸を巻き、悠然と蠅の体液を吸っている。怖い。本当に、怖い。

我が家はあちこち傾いているので、全ての戸が閉まりきらず、隙間が開いている。その上、我が家には、なんと網戸がない。虫はいくらでも入ってくる。
夜になると、電気や白い色の部分に小さな虫が集まる。そして、一晩で息絶えてしまう。朝になると、蛍光灯の下などにちいさな虫の死骸がたくさん積もっている。困るのは、絵の上にも積もることだ。胡粉の辺りがとくにひどい。

蜘蛛は益虫だ、と昔から聞くが、ちっとも好ましい虫ではなく、子供の頃は毛虫と同じ害虫のような気がして仕方がなかった。しかし、今年になって、蠅を狩っていくその冷酷なハンターぶりが、実に頼もしく、心から「蜘蛛は益虫だ」と認識するにいたった。今時、知識としてではなく、実体験から、心の底から、虫の益について理解するなんてそうそうできない事じゃないかな、と思う。
頼りになる蜘蛛たち。惚れ惚れとするその活躍を見て、しかし、私は蜘蛛を嫌いになりそうである。怖い。本当に、本当に、怖すぎる。

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