OIKAWA,Satoko blog

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光太郎の「ぬれた手」 

 物そのものは皆うつくしく
 あへて中間の思念を要せぬ。
 美は物に密著し
 心は造型の一義に住する。

高村光太郎の「ぬれた手」という詩の一節である。
私はこの詩を長く間違って読んでいた。「心は造型の一義に往する」と読んでしまっていたのだ。「物そのものはそのままで美しくある。なのに、自分は美を作ろうと必死で、造型というものの中をただ往来するのみだ」という意味に解釈していた。とんでもない。光太郎は「心は造型の一義に住まいする」と言っているのだ。私のように、美しいものを作ろうと右往左往するようなことは彼にはないのである。間違いに気付いて、やっと、この詩の雄々しく決然とした冒頭が理解できた。この詩の始まりはこうである。

 わたくしの手は重たいから
 さうたやすくはひるがえらない。
 手をくつがえせば雨となるとも
 雨をおそれる手でもない。

たやすくひるがえることもなく、雨もおそれない「手」とは、まさに近代然とした自覚のように思う。自己を強く持ち、かつ、自然をも掌握しているかのような全能感。しかし、それは「頭」ではなく「手」の力だと光太郎は謳う。
そして、詩はこう締めくくられる。

 また狐が畑を通る。
 仲秋の月が明るく小さく南中する。
 わたくしはもう一度
 月にぬれた自分の手を見る。

自己を強く持ち、自然を掌握する手は「月にぬれ」ている。自然を掌握している光太郎の手を、自然はその上から掌握している。見るものと、見られるものとがクラインの壺のように反転しながら親和する。心が造型の一義に住まいするためには、その親和性を保たねばならないということか。今の自分には果てしなく、高みの域に思われる。

唯一の救いは、我が家の目前に広がる畑にも狐が通る、ということくらい。
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桜  

急ぎの仕事に追われてはいたが、春が来たからには桜である。
大河原に用事だという夫の車に愛犬共々乗り込んだ。土手沿いの圧巻の桜は当然だが、何の気なしにカーブを曲がると目の前に満開の桜が現れたり、住宅地のただ中にある神社の桜もとても綺麗。宴は出来なかったが、充分、柴田の桜を満喫できた。

今年の春ほど、到来が待ち遠しく感じられたことはない。
我が家は山間の一軒家。南は山に囲まれ、北は広い農地。風水では玄武(北)の守りに朱雀(南)の門といって、北側に遮るものがあり、南は広く開いている土地が吉相とされるが、その真逆である。こんなことは占いの問題ではなく、要は北は寒いから閉じて南は日差しを受けるために開けてあるほうが良いという、いたって当然のこと。
真逆の我が家には冬中、陽が当たらない。冬の太陽は低くしか昇らないので、南側の山が太陽をすっかり遮ってしまうのだ。雪の積もった次の日など、周囲の家は雪も解け庭も道路も乾いているのに、我が家ばかりはアイスバーン。愛犬ですら滑ってころんだ。

我が家は、周辺の人々に「陰」とあだなされている。犬の散歩中「あぁ~、陰さ住んでる人?」と、話しかけられたこともある。苦笑する間もなく「はい、そうです」と答えた。「絵描いてるんだって聞いたんだけど~、今度見せてもらいに伺うからね~」とニコヤカにおばあさんは去っていった。
大家さんは「今は寒いけど、大体3月19日になっと太陽さんが当たるからね」と、元気づけてくれた。もっと喜ばせてくれようと思ったのか「夏になれば太陽高くなってうんと暑いから~」と、嬉しくないほど陽が当たることについて力説。さすが真逆の立地である。
大体という前置きの割に実に具体的な3月19日という目安が、20日の春分の日を区切りにしていることに気がついたのは、本当に太陽が家に当たり始めた3月の末である。季節感のない自分を恥ずかしく思うと同時に、暦がいかに正しく季節を知らせているか感じ入った。

朝、目が覚めると暖かな光が瞼を通してやわらかに感じられる。愛犬の起床時間も数日前より1時間以上早い。太陽が昇ったよ!朝散歩だよ!と大はしゃぎ。パジャマのまま布団から抜け出て伸びをしてもちっとも寒くない。通常、徐々に訪れる春は、我が家にだけ唐突にやって来た。太陽がちょっとずつ高く登り、ある日山の上に顔を出した。それが我が家の春の初日なのであった。

朝の散歩に出ればあちこちに見える、ふきのとう、ロウバイ、モクレン…。春の朝陽に優しく起された私の目は、やわらかな彩りをどんどん吸い込んでいく。


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