OIKAWA,Satoko blog

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老木倒れる 

強烈な風の音を夢うつつに聞いていた一昨日の晩。引いては力を増して荒れ狂う暴風。まるで大波。ズドドドドォォォォン!!と、聞いたこともない轟音と共に家が揺れた。ワッと叫んで半身を起し周囲を見回す。愛娘犬も瞳を真ん丸に見開き耳をピンと立てて大いに慌てている。

私は風が怖い。地震も雷もどちらかといえば好きなのに、風はとても怖い。高校の時、仙台市のはじっこ、山形に近い所に越した。家の庭は国有林に面していたので、風が吹くと木々がザワザワ大きく鳴った。それまで郊外と言えど住宅地に住んでいた私には風の音がとても強烈に響いた。それでなくとも山の夜の暗さにまだ馴れていない。胃の底面がゾワゾワと落ち着かなくなり、肌がチリチリ縮こまった。例え恐ろしい位の自然の驚異でも、その中で小さいときから暮らしていれば恐怖感との親和性が身に付くのじゃないか、と想像する。風の音が怖いのは、いい加減成長しきってから出会ったからだと思うのだ。

轟音に驚きつつも、その後も続く暴風音がいやでぎゅっと閉じ頑張って眠った次の朝。昨晩の轟音は家の裏からしたようだ、と見に行ったOTTOが血相を変え「やばいよ、死んじゃう!」と言う。一緒に偵察に行った愛娘犬も興奮している。私も小走って見に行く。
大家さんが言うには樹齢80年、20m近い杉の大木が倒れている。根元からボキッといったらしい。もし、少し角度が違っていて家に倒れていたら、そして昼間だったら、二階を仕事場にしているOTTOの頭上に屋根もろとも直撃していたであろう。

飛ばされた人もいたらしいし、倒壊した家もあったというからよほどの大風である。古い農家を借りて面白可笑しい田舎暮らしだが、いやはや笑ってばかりはいられない。踏ん張っていてくれた老木が昇天した今、我らが老家に今度は直接、風が吹きつけるのだ。風の音が怖いって、そんなやわなことはいっていられない。貧乏田舎暮らし、恐るべし。
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お参り 

お寺の仕事が入った。カトリックなのに、なぜかお寺とか神社の仕事をいただくことが多い。何となく(自分の神様にというよりもお寺の檀家さんに)後ろめたい。無信仰な人よりは、他の宗教に対しても敬意とか共感をもてるので許してください、と思う。

以前、浄土宗のお寺で涅槃図を描いたときは本堂で仕上げをした。一日本堂にいると、時々信者さんが来てご本尊を拝んで帰っていったりするのを見る。大きな本堂なので信者さんは、隅で絵を描いている人がいるとは気付かない。特に切実な願いがあるふうでもなく、近くまで来たから拝んでいこうという感じ。私は敬意と共感をもって自分の気配を潜めた。

子供の表層 

短歌の同人誌の誌上ギャラリーに載せていただく作品の制作が終わった。子供のアトリエで撮った写真をフォトコラージュ風に構成して点描画を6点。久しぶりの人物だったのでとても楽しかった。

私の息抜きはもっぱら「人形遊び」。子供を描くというのはこの「人形遊び」にどこか似ている。私には子供もいないし、一人っ子だから実際の子供というものをほとんど知らない。子供の内面性を知る手がかりは自分の子供時代の記憶しかない。だから、私が子供を面白いと思ったり可愛いと思ったりするのは極めて表層的な、外観のことなのだと自覚している。やわらかで、ちんまりとした手足、真ん丸い後頭部。完ぺきなキューティクル。白目が青いくらい澄んで黒目はオニキスみたいにキラキラ。それらを愛でながら画面に再構成させていく。自分の好ましい形に持っていく。

子供のアトリエを見学しているときも私の目は表層を、外観を面白がって記録したのだと、つくづく今回思い知った。見学の時のメモのくだらなさに比べ、写真の秀逸なことといったら!見学は文化庁の研修、子供の発達と美術表現について考察するためだった。しかし私の眼は本来の目的からさっさと逸脱し子供たちの動きや表情、身体の面白さばかりを追っていたらしい。

そのことが良いことなのか、批判されることなのかは知らない。自分にとってはそれで良い。良いってことにしてしまおう。

短歌大会 

母は短歌を趣味にしている。その母に先月「NHK短歌全国大会」へ連れて行かれた。介護気分で付きあったに過ぎなかったのに、私は大いに感動してしまった。

全国から寄せられた短歌から賞に選ばれた歌をアナウンサーが読む。その後、歌を作った背景の説明とともに壇上の作者が紹介される。作品と作者がピッタリの印象であることはまずなかった。初々しい恋の歌を詠んでいたのはおばあさんだったり、豪快な酒の歌を若い女性が詠んでいたりする。

短歌は具体性が大切らしい。具体性こそが作者の感動を受け手に追体験させる鍵なのだろう。具体的であるためには、作者が自分の感動を明瞭に記憶し、かつ余分なものをそぎ落とし、感動の核心を把握していなければならない。ましてたったの三十一文字。実に難しい。

たくさんの名もない歌詠み達が日々の中で、想いを伝える言葉を指折り数えて探している。遠い若い日の恋、介護の苦悩、戦争の記憶、故郷の風景…。ポケットに納めては取りだし、何度も何度も眺めたりいじったりして「感動」がすっかりその人になじんだ形になって、ようやく歌になるんだろう。五七五七七の中に納められた風景は、どれも慈しむべきものに思えた。

高校の時、短歌を教えてくれた先生がその大会でジュニアの部の審査員を務めていらした。先生とは偶然、ひと月ほど前に再会をして今度先生の短歌の同人誌の誌上ギャラリーに絵を載せてもらうことになっている。この不思議な偶然に背中を押されて、私も短歌を始めてみることにした。母と同じNHK学園の短歌講座。通信教育なので歌を送ると添削されて帰ってくる。

日記を更新しなかった間、私なりに久しぶりの歌を三首詠んでみた。恥ずかしいからここには書かない。

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