OIKAWA,Satoko blog

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ぐずる朝 

あまりにもストレートに、願望や気にかけていることが夢に出ると、しょんぼりした気分になるものだ。意識界では平気なつもりでいたことを、実は気にしていたと知って情けなくなるためだろう。今日の夢もそうだった。

暖かな布団を頭にまでかぶせて、ぐずりたくなるような朝。
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ヒューマン 

テレビが映らないので週に一度はビデオ屋に行く。しっかり見るための映画と、食事時に流すための連続テレビドラマか世界名作劇場を借りる。店内物色のルートも決まった。新作はすぐ返さなければならないので飛ばし、準新作を邦画、洋画の順に眺める。ホラーの棚を眺めて、サスペンスを眺めて、SFを眺めて、TVドラマとアニメを確認し、ヒューマンドラマ系を最後に眺める。その頃には大体、4本程度を手にしている次第。

私はホラー好きなので(スプラッターではない)ホラーの所に留まっていることも多い。先日、いつものようにホラーを見ようと棚に向かうと、毛糸の帽子を被った年は70超えたと思われるおじいさんを発見。しかし、おじいちゃんのいる棚はホラーの隣、ちょっと他の棚と分けられた風情のアダルトコーナーなのだった。ビデオを手に取っては熱心に説明を読んでいる様子に何だか気が引けて、近付くことができなかった。白いコンビニ袋に1人分の食事を入れてひじの辺りにぶら下げている。他を回ってまたホラーに向かうと、おじいちゃんはやはりそこに佇んでいるのだった。 なんだか、もう、おじいちゃんのわびしい姿がおかしみを通り越して愛らしさにまで変容して感じられた。

ホラーをあきらめ、とにかく今週のビデオを決定しレジに向かう。 途中、何気なくヒューマンドラマ棚を見やると、そこにはあのおじいちゃん。アダルトを見ていた時とまったく同じ熱心さと真面目さで説明を読んでいた。

ヒューマン、である。

墨の華 

牡丹をふたつ買った。ここ数年、花を描くことが多い。何の花?と聞かれても何ということもない。画面に流した墨が乾いたさまが、私には花びらに見えた。そこから一連の花の作品が生まれた。何の花かと問われれば、墨の花なのかもしれない。

「花のルール」を掴むためにデッサンをしたり花をそばにおいて制作したりはする。その多くはシャクヤクだった。手ごろに売っていたし、華やかなようでどこか簡素でもあり、シャンとしていて好きだった。

東北に戻ってから、私はバイトも就職もしていない。制作とDIYと犬散歩の日々だ。のんびりしてストレスもない。そのためか絵がやわらかになってきた。悩みや憤りが以前は絵に出てしまうことが多かった。硬く頑固な力が画面の動きを止めるのだ。直線的なものを好んでもいた。

やわらかになった私の好みは、綺麗なもの、可憐なもの、あでやかなもの、匂やかなもの…と、どんどん膨らんでいる。そこで、ふと今度は牡丹にしよう、と思ったのだ。 シャクヤクよりずっとあでやかだし、やわらかである。そして、育てるにはとても手間がかかるらしい。

せっかくの貧乏生活。生活の安定と引き換えに手に入れた自由な時間は、自分のためにだけ費やすんだ。手間ひまかけて育てた花を、丁寧に描く。ゆったりと、綺麗だなと思うことに集中する。すき間だらけの家に住んで、魂だけはどこまでも貴婦人のごとくにふくよかでいよう。郵便屋さんも夕方にしか来ない、山奥の私こそホントに「深窓」の令嬢だもの。

怠惰はご法度 

大雪になった。先日、雪が積もった日、ちょっと忙しくて雪かきを怠ったら、ものすごいアイスバーンになってしまった。日中、少しだけ解けて夕方には再び凍るためだ。近所の雪はみんな解けて道路は乾いているというのに、我が家の周囲だけ氷の世界。 というのも、我が家の南側に大きな山があるためだ。テレビ電波も届かないし、日光も届かない。永遠の日陰。ツンドラの我が家。桃源郷ならぬ凍源郷

アイスバーンの上に雪が積もったのだから大変なこと。すべることといったら殺人的なレベルである。天然のスパイク爪持つ愛犬だとて滑って転ぶのだから、長靴の靴底なんて何のストッパーにもならない。昼時、いくぶん気温の高くなったところを見計らって氷を割った。砂利やコンクリートに食い込んでガッシと固まる氷をスコップで叩く、叩く、叩く。 足先はかじかんだままだが、おでこや鼻先には汗がふきだしてくる。

数週間前、水道管が破裂した時にも思ったが、つらい思いをして初めて、怠慢を悔いるものなのだと痛感。田舎暮らしは怠慢との戦いでもある。便利さに馴れた身体は寒さ以上に面倒さに弱い。手間ひまをかける生活を当たり前にしなければいけないんだろうと思う。やらなかったことのつけは、誰でもない自分にふりかかってくる。

精神の浪費 

2泊3日で上京をした。16日には東京での個展のため会場の下調べと友人の展覧会をふたつ見た。17日には母に連れ添って「NHK短歌全国大会」に参加。18日は母に立川・高島屋で開かれているニットの貴公子・広瀬光治さんの個展へ連れていかれる。19日は過労でダウン。情けない。

今日はボンヤリ紙粘土で人形を作ったり、明後日に控えた放送大学の単位認定試験の勉強をしたり、「アルプスの少女ハイジ」のビデオを見たり、お世話になっている美術館とギャラリーの方に「New Art Conpetition of Miyagi」の図録と手紙を郵送したりして一日が暮れた。…こうしてみるとそれなりにいろいろしたのかしらと思う。

引越のいろいろでなかなか制作をスタートできない。こまごまとした忙しさに追われて日々が過ぎる。何かしてはいるのだけどやはり制作をしていないと焦るものだ。怠慢に暮らしている気がしてならない。友人の展覧会はとても良くて、自分も頑張ろうと気持ちを引き締める。何もせずに焦ることほどくだらない精神の浪費はないのだから。

つっかえ棒 

数日前、床が抜けて、おとついには水道管が破裂し、昨日は外壁に大穴を発見。大家さんが修繕用にとトタンをくれたので、今日はトタン用の釘を買いに出かけた。

今度の家のアトリエは二間の間の襖を外して8帖+8帖で16帖にして使用予定。ところがこの襖、家がかなり傾きつつあるために開閉しづらい。ゆえに敷居から天井に手製のつっかえ棒がしてあって天井を押し上げている。それによってどうにか襖の開閉を楽にしてやろうという大家さんの考えらしい。こちらは二間続けて広く使いたいわけだから、このつっかえ棒がとてつもなく邪魔である。外しちまおう!とも思うのだが、このつっかえ棒を外した途端、屋根が落ちて家がつぶれたらどうしよう、という不安が頭をよぎる。

まさか、と思うが、万が一ってことがなくもない。なにしろ、床が抜け、外壁に穴が開く家だ。つっかえ棒は実に華奢で、高齢の大家さんの笑顔が浮かぶようななりをしている。ほんの10cm角のつっかえ棒。多分、これが柱となって家を支えているということは力学上あり得ないと思われる。しかし、世の中には「気」というものが確かに存在する。あの大家さんがこの家に込めている思いの深さが、この傾いた家をどうにか保っているとしたらこの細いつっかえ棒が実は絶大な気の力をはっきしているとも考えられるのである。
まさかね…。でも、やっぱり悩む。アトリエのど真ん中にほっそりと立つ、つっかえ棒を眺めながら今日も暮れるのでありました。

床が抜けた 

今度の家では8帖を2間占領しアトリエとしている。一間はぼろぼろなりにも畳が入っているが、もう一間には畳がなくて板が敷いてある。もともと板間だったようだけど何しろ古いので歩くだけでももひどく軋む。ついに先日、床が抜けた。
押し入れのものを取ろうとつま先立った瞬間、ガズッと音がして左足の先が地面に触れた。一瞬訳がわからなかったが、事態が飲み込めた途端に笑いが込み上げた。

穴が開いていてはどうしようもないので、コンパネで床を張る予定。穴に初めて気付いた愛犬は恐る恐る近づいて床下のにおいを嗅いでいた。「怖い怖いだよ~」と声をかけると思いっきり尻尾を下げ腰が引けた状態で振り向いた。まゆ毛はしっかりハの字である。

家というものが意外に簡単な構造なのだと気付くこの頃。すき間だらけの窓からは冷たい風が吹き込んでくる。野外?ってほどに簡素な我が家。安い建材を近所のDIYで仕入れては補修の毎日。いつかキャンプに行こうと言い続けて一度も家族でキャンプはしたことがないのだが、今の生活、それ自体が間違いなくキャンプである。

フリフリ 

意外なことなのだが、街が恋しくなる。
都会派でもなく、買い物好きでもブランド好きでも、グルメでもない私。人込みも嫌いだし、押し付けがましくサビばかり繰り返す流行歌も嫌いなたちだ。にもかかわらず、街が恋しくなる。 ファミレスのハンバーグ定食とか、サイボーグにしか見えないエレベーターガールまでもが懐かしく思う。田舎暮らしを始めてホンの2ヶ月。自分はアウトドア派だと思っていただけに、この気持ちには驚いている。木々の様子や空模様に胸ときめかせることは事実にしても、それだけでは埋められないものがあるのは事実なのだと感じている。

小奇麗なもの、丁寧にパッケージされたもの、人の温度のない、出来合いで無愛想な量産品、それらが持っている冷たくも優しい、距離を保ったサービスが懐かしいのだろう。実の無い、通り一遍で、誰にでも当てはまる、その他大勢でいられる気安さが懐かしいのだ。

今日、通販で注文をした人形が届いた。「セキグチ」という、モンチッチで有名な会社で作っている抱き人形、子供用の量産品である。私は一人っ子だったから、人形やぬいぐるみが大好きでいつもそばに置いていたし、誕生日やクリスマスのプレゼントはぬいぐるみか人形と決っていた。
去年、ネットオークションでドイツの作家物のドールを手に入れてから、まるで子供の時のように人形熱が再燃してしまい、その後数人(数体)ネットで手に入れていた。むろんそれらは全て中古。中古でなければ手に入れようもない良質の子達ではあった。でも多分、今の私には小奇麗にパックされた量産品のまっさらなものが必要だったのだと思う。かつ、生活に必要な訳でもない、無駄で、可愛くてフリフリのもの。

届いた人形はいかにも日本製の、あっさりとして彫りの浅いお人形だった。トヨカロンというちょっと上質な素材で出来た髪はサラサラソバージュ。その髪を手櫛でとかしつけながら忘我の境地に陥る自分を面白可笑しく客観視する。
多分、これからの生活に対する不安もあるのだろう。茫洋と広がる未来に、果たして自分の才能とやらが何かしらの方向性を示せるのだろうかと…。 ここまで、のっぴきならなくなったことなどこれまで無かったんだから。

2004年、ここが正念場だぞ、と思う。正月早々、寒さで水道管が破裂。めいっぱい落ち込んだけど負けてなるものかなのである。魂はどこまでも孤高を保たねばならぬのだ。生活に負けてはならないぞ。どんな時でもエンゲル係数はできる限りに低く、役に立たない、フリフリを忘れてはいけないと、自分に強く言い聞かせる今宵、月は誰のためにでもなく冴えている。

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