OIKAWA,Satoko blog

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ぐるぐる 

28、29日と上京。展覧会を銀座で2つ。埼玉県川口市の知的ハンディのある人たちの工房「集」での絵画展、神奈川県で後輩のグループ展と個展を観た。

東京に着き、まずなぜか二度もDMをくれた人の展覧会に行く。どこかで接点があるはずなのだが思い出せず申し訳なく思う。日本画材を使いながら従来の日本画的でないものを、と制作している人らしい。グルグルと回るムーヴメントがテーマみたいだった。

次に、川口で工房「集」絵画展。知的ハンディある人達の作品。工房スタッフの方に「この人と、この人と、あの人のが良い」と話すと、全て同一人物だと言われて驚く。墨の書、極細ボールペンで字を幾百と重ね描きしたドローイング、カラーの油性マジックで図形を描いたもの。画材によって違う表現ではあるが、極めて切れよく、雲のない空みたいに抜けきった線は確かに同じ質のものだった。
その中でも、私は極細ボールペンの作品に感動した。「ドラえもん」や「はぐれ刑事」等、好きなテレビ番組のタイトルをひたすら描き重ねる。紙の左上辺りから書き始めて興が乗ってくると、どんどん字は右下にずれてくる。そして、紙の端を認めた彼はその右下辺りで、納得いくまで字を重ねる。
どんどん気持ちが高まって猫背になり、利き手の右側に背中を傾げながら「ドラえもん、ドラえもん…」とペンを走らせる様が目に浮かんだ。あらかじめ右下辺りに描き重ねた構図のものもある。これはすでに集中し右に傾いで背中を丸め、支持体との距離が近くなっている状態で描き始めたものだろう。身体の動き、気持ちの高まりが、切れ良く自由な線の重奏によって伝わる。
心地良い風に吹かれたように私の肌がサワサワ鳴った。

ふと、銀座の画廊で観た作家の絵を思い出す。グルグルさせよう、と彼は頑張ったに違いない。私には良く分かる。グルグルさせたい、と思うばかりに、画面は固まって絵は止まってしまう。
あの作家に、極細ボールペンの作品を見せたら泣いてしまうかもしれないな、と思った。こんなに自由に気負いもなく、自分の高まりにだけ全てを集中できたなら、画面に本当のムーブメントが生まれるはずなのに。そんな境地にたどり着くことが、一生のうち自分にあるんだろうか?と。
知的障害と人は呼ぶけど、ハンディある表現者のとびきりな作品を前にすると、自分が楽園を追われた者のように思え、彼らに憧れずにはおれなくなる。

29日、母校と相模原駅で後輩の個展とグループ展。面白かった。この後輩は、私が東久留米市でやっていた知的ハンディある人の美術アトリエ講師を引き継いでくれている。彼になら、任せられる、と思った。そして、メンバーの表現は、彼の制作にも良い影響を及ぼすだろうとも思った。
彼は表現をすることと自分が生きていることとを同一にしたいともがくような作品を制作している。そのため、作品は時に自虐的にも映るのだが、表現の力を決して疑っていないからなのか、根底では健全さと明るさが画面を支えているように見える。もしかして、それって「若さ」なのかも、と思う。7歳の歳の差は、結構なものかもしれないな。

母校はあいかわらずのんびりしていて、がらくたと絵具の匂いでいっぱいだった。数は減ったけど猫もおり、学生は地べたに座って菓子パンを食べている。制作中の作品に止まった甲虫を真剣にカメラに収めている男子学生。通りかかった女子学生に「これ」と虫をあごで示す。汚れたつなぎのポッケに手を突っ込んだまま女子学生がへへっと笑い去っていく。
「君はいつもあそこの塀に脚をぶらぶらさせて腰掛けてたよね」と、教官に言われたことがある。「聡子ちゃん、またアイス食べてる」と毎日指摘されてた大学時代。懐かしいな。でも、考えてみると30過ぎて、今もなお、絵を描いてはおやつを食べて、愛犬を愛でる生活は、かつてとそう変わってもいない。せち辛いご時世、私はかなり幸せ者なのだろう。
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中川幸夫の華 

今日のNHK・新日曜美術館での特集は前衛華道家の中川幸夫。中川氏の作品を昔、雑誌で眼にしたときの衝撃は忘れられない。私が見たのは、花びらを圧縮して四角にまとめたものを荒縄で縛った作品。縛られた花びらは、血の様な華の汁を周囲に滲ませ、むせ返るような艶やかさを放っていた。

中川氏は、五歳の時から脊椎の障害でひどく腰が曲がっている。障害が彼に与えた「生きづらさ」が果たして表現にどれほど影響を及ぼしているかはわからない。しかし「生きづらさ」の自覚が、障害のあるなしに関わらず表現に影響するのは事実だと思う。
「生きづらさ」とは障害だけではない。「生きづらさ」は世界と自我との関わりに生まれる痛みであり、痛みを回避しようとしてなお回避のしようのない、ゆずれぬ有り様こそ自我である。自我を得てしまった私たち。近代以降を生きる者は誰もが「生きづらさ」を持っているはずなのだ。多くの場合、人は負っている「生きづらさ」を、欺瞞という技で包み、甘やかな調和を世界と結ぶ
中川氏は池坊を捨てた。生け花の世界にある欺瞞を嫌ったためだ。そして、あらゆる会場に展示を拒否されるようなすさまじい華を生け続ける。生け花というのは「生け」花であって、その名は示すように花の生き死にの表現である。ハイソな娯楽や、花嫁修業や、権威主義という側面ばかりで成り立ってはいけないものだ。切実さや、激しさ、ゆずれなさというものを欺瞞は受け入れることができない。だから、あの中川氏の華が、欺瞞に満ちた生け花界に咲ける訳はなかったのだろう。

中川氏の華は枯れていたり、腐って花の汁を滴らせていたりする。かといって、死んだように見えるかといえばそうではなく、むしろ「花は生きていた」ということを強烈に見せている。生け花とは、花を切り、命を絶って、それを生かし直すことだと誰かが言った。現在、多くの生け花は、切られても緩慢に生き続ける花の、御しやすい美しさのみを見せるばかりだ。
中川氏の華は切り口を見せ、花の汁を滴らせながら、生きていたことを圧倒的に感じさせる。残酷なほどの所業を受けながら、華は猛烈な美しさで存在している。生き死にの切実さを、中川氏は日々負っている。その切実さに華は呼応しているように感じる。残酷に映るのは、それほどの切実さに私たちが馴れていないからではないだろうか。切った花をぼんやりとした死に追いやりながら、愛でることの方がむしろ本当は残酷なのだといえないだろうか?

「花と闘う」だの、「木と闘う」だのと、前衛と名のつく人は良く口にする。私はそんな言葉を聞くとうんざりする。中川氏はそんなこと言わない。川の端や、野原の花を摘むと、当たり前のように根ごと抜けているのが見えた。花々が土に生きているそのままに、中川氏の腕に身をゆだねたように見えた。
あの衝撃的な花びらを腐らせた作品も、しおれたからと捨てられた花びらを集め生けたものだという。花と闘うなどと、中川さんは多分思っていない。自分の作品に感銘を受けて賛辞を捧げる人々よりも、自分の生き死にの切実さに共鳴するのは花々なのだと、きっと思っているだろう。花は植物の生殖器だから、愛を受ければ艶めくのが道理だ。エロスとタナトス、花が生き死にのさなかにあって美しさを見せるのは当然なのかもしれない。生き死にに欺瞞なく切実に向かうなら、その艶めきもまた切実であるはずである。「美」とはそういうことでもあるだろうと、思った。

ラルシュ・かなの家 

風邪である。38.7度の高熱である。
静岡にある知的ハンディある人々のコミュニティー「ラルシュ・かなの家」に二泊三日で滞在させていただいた。仙台に戻った次の日は「柴田のさくらの会」で企画した「さくらの絵手紙コンクール」で最優秀賞をいただいたので、その授賞式に出席。その次の日、のどが痛み始めた。

「ラルシュ」は知的ハンディを持つ人々とその人々のアシストをする人々のコミュニティー。施設等に暮らす知的ハンディを持つ人の「なぜ私は家庭で生活できないのか」という苦しみ応え、ジャン・バニエ氏が1964年、二人の知的ハンディを持つ人とフランスのトロリーに家庭(ホーム)を作ったのが始まり。 このコミュニティ-は2003年現在29カ国122コミュニティ-に広がる。うち、日本にあるラルシュが静岡の「かなの家」である。

かなの家では、ハンディあるみんなと野良仕事をした。私と組んで草取りやキュウリの種まきをしたHさんは風邪の治りかけ。鼻をかむのを手伝って、そのティッシュを捨てるところもなく自分のポッケに入れて作業を続けていたりしたから、うつったんだろうと思う。Hさんは私の横でずっと鼻をブシブシ。風邪引きの彼に労働を強いてはいなかったか、ちょっと振り返ってみる。カゴに雑草をてんこ盛りに運ぶ様子は実に誇らしげだったから「強いて」はいなかったとは思う。

風邪はかなりしぶとくて一週間を過ぎても残っている。鼻をかむたび、Hさんの顔を思い出す。
労働が終わり、Hさんが畔の段差を乗り越えようとした時、安定悪そうだったので私は手を差し出した。Hさんは大きな麦わら帽子を被っていたから私の顔は見えなかったに違いない。私の表情を確かめもせず、目の前に出された手を彼は躊躇なく握りかえしてヨイコラと畔を乗り越えた。握り返す手には、何の疑念も感じられず、またあらたまった感謝も表明されなかった。 この瞬間私は感じ入った。「かなの家」に満ちる「信頼」の確かさに。

高校時代「信頼している者同士は別れ際、さよならをしたら振り向かないんだ」という友人がいて、彼女と別れるときは決して振り向くことを許されなかった。といって彼女は毎回私が振り向かないことを確かめていた訳であるが。
麦わら帽子の下で、彼は自分の足下だけを見ていたのだろう。ヨイコラとだけ一心に。伸ばされた手はいつだって当たり前にあるものだと、信じる思いに値する、支えを私はしただろうか?「大丈夫だよ」という顔を私はしていたはずだ。彼が確認すると予想して。しかし、確認の必要な助けなど本当の支えではない。私は自分の手を疑念なく信じてもらったことに驚き、そして嬉しく、感動した。

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