OIKAWA,Satoko blog

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「初恋の来た道」チャン・イーモウ監督 

ビデオ屋に行くたび探し続けて数ヶ月、常に貸し出し中だったチャン・イーモウ監督の「初恋の来た道」をやっと見た。個人的には「あの子を探して」の方が良かったが「初恋~」も良い作品だと思う。大きな物語でもないし、演出も丁寧ではあるが古風で、この映画がこんなに長く貸し出し中なほど人気が続いていることに驚く。そして、とても嬉しい気持ちになる。ビデオ屋に通う人の多くは若者だ。その若者がこの映画をそっと長く入れ替わり立ち替わり借りているのだ。そして一人涙して鼻をかんでみたりしているのだ。嬉しいなあ。

貧しい中国の山奥の村にすむ娘と、赴任してきた若い教師との恋物語。娘が一目でその教師への恋に落ちるところに現実感の無さを感じるが、その後の娘のストーカー並みの追いかける姿にすっかり引き込まれてしまう。そして「初恋~」「あの子を~」両方のテーマである「学校」に感服する。「教育の素晴らしさ」なんて言葉にすると恥ずかしいけど、でもそうだな、と芯から感じさせられる。 といって、お説教くさい訳ではない。「アメリカンヒストリーX」(人種問題の映画)も同時に見たが、これはひどかった。新聞の投稿記事を2時間朗読された気分になった。

中学で文化祭の劇の戯曲を担当した時、先生に「演劇は啓蒙でなければならない。あなたならこの意味が分かるでしょう?」と言われた。果たして私は啓蒙なる言葉を知らなかった。家に帰り広辞苑で調べた。しかし、納得はしなかった。演劇が思想と繋がっていた世代の先生だったから、そんな言葉が出たのだろう。 しかし、啓蒙のための演劇ひいては表現で素晴らしいものなど本当にあるんだろうか? 啓蒙される側の位置づけである観客に感動はありえるだろうか?  文化祭の劇は成功を納め、啓蒙先生も喜んだ。でも、先生が喜んだのは劇に啓蒙性が感じられたからではあるまい。

「初恋~」は追いかけるシーンの連続だ。そして、亡骸を人の手で運ぶとその道を辿って魂が帰ってくるという言い伝えにのっとって、かつて彼を追い走った道を通り彼の亡骸を運ぼうとする話である。一筋の道があって、焦がれて道を走り、年老いてその道をまた歩む。それだけだ。ただ、そうであることにみんな泣くんだ。人は一途でなければならぬ、と思うのではなく「水餃子食べさせたいんだなぁ」(見れば分かります)と思ってぐっと来るんである。

表現をするというのはこの娘の「行動」に似ていると思う。これが「アメリカン~」のように「言葉」になってしまうと映画としては地に落ちる。だったら論を打てばいいだろう、となるからだ。
何で焦がれているか理解するのは初恋らしくない。その恋が村人の教育環境の改善に一役買ったことに誰も感動してるんじゃない。筋道など追う間もなく、焦がれて走る道が綺麗な中国の山間にあるのだとフィルムが見せてくれる時、感動が生まれるんだと思う。ものを作るというのはそういうことなんじゃないかな、と思った次第です。
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東京フィスト 塚本晋也監督 

先日、塚本晋也監督の「TOKYOフィスト」を見直した。この映画は私の好きな映画で何回か見直している。にもかかわらず、今回その暴力シーンにかなり驚いた。暴力の描き方のしつこさと下品なまでの諧謔性に度肝を抜いた。ほんの少し前まで、この過剰さが「ちょうどぴったり」だった自分の感覚にも恐れ入った。今現在はこれが過剰だと感じるくらいの神経の持ち主になったということだろうか?これが「ぴったり」だった頃、私は暴力にどんなカタルシスを得ていたのだろう?

私は暴力映画に抵抗はない。ストーリーが象徴性に富んでいればいるほど、そこに描かれる暴力は私を感動させる。塚本然り、北野武然り。タランティーノも好きだけれどあれは香港映画の匂いがあり、演武のようで暴力とはならない気がする。深作欣二の暴力は生きた動物の暴力であって何かの象徴ではない。だから、「バトル・ロワイヤル」は駄作に終わったのだろう。あの小説はオタッキーなファンタジーでなければ意味がなかったはずだからだ。任侠に涙するロマンチストが死に絶えた今は彼の本領を発揮させる本などもうないのかもしれない。第一、俳優もいないだろう。

しかし、残忍は大嫌いだ。今村昌平、あれは恐い。しかもちっとも感動しない。子供の時TVで見た「楢山節考」は最悪だった。横溝正史シリーズには目が無く、江戸川乱歩も大好きだったが、今村作品の根底にある残忍さには耐えられなかった。たとえ暴力が描かれていなくても人物に対する加虐的なまなざしと、そこに満ちているひたひたとした暗い「悦び」を私は恐怖したのだと思う。

暴力には悲しみがなければならない。彼の作品には悲しみを生むほどの愛というものが欠けている。だから恐い。私にとって暴力は、返り血を浴びて相手の苦しみの責任を身に受けるような愛がなければいけない。もしくは前身防護服、ビニール手袋着用の上殴るほどの全き侮蔑でなければ暴力は欲望でしかなくなると思う。相手のために地獄に堕ちる覚悟が必要だ。絶望か純度の高い怒りゆえの暴力でなければ私は感動しない。その時、暴力は死か、もしくは希望を象徴する。

別れた恋人の前でコンクリの壁に何度も頭を打ち付ける男。それを見て「コンクリじゃあんまりだろ」と血だらけの男の額を握り拳で何度も殴る女。「TOKYOフィスト」で、私がいつも救われた気分になるシーンだ。あんな時、自分は誰かを躊躇なくなぐれるだろうか? 誰かが私を素手で思い切り殴ってくれるだろうか?腫れあがった顔を醜いとも思わず、血にぬれることを汚いとも思わずに、うわべの言葉や抱擁ではない関わりを誰かと持つことが出来るだろうか?

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