OIKAWA,Satoko blog

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占い 

ほめられた。残念ながら作品でない。手相をほめられたのだ。このところ気の塞ぐ不幸に見舞われていたせいか町中の占い師の前で足が止まった。気が弱っていた証拠かも知れない。
誕生日と出生地をパソコンに入力、細かなホロスコープが出る。星の巡りも2重3重になっているし、占い師のおばさんが見せてくれた英語版の占星術の本にはひたすらびっしりと星座と星座の位置関係が数字で書き込まれており、さすが専門は大したものだと感心した。星の巡りで運命を観るって結構綺麗なことにも思うし、大きな流れの中に自分の運命も関係づけられていると夢想するのも悪くない気がする。

占星術で行くと、ここ数年の私は120年に一度の不運に見舞われていたのだという。今年の8月2日に不運の時期が明け、今度はとてつもなく良い運気に恵まれるらしい。120年に一度の不運なら苦労のかいもあったような気分になった。
最後に手相を見せると、おばさんは目を丸くして「こんな手を持っていたら、普通に暮らそうとしても運命がそうさせません」と言う。神秘十字とか芸術十字とかお助け十字とか仏心眼とかいう珍しいものがたくさん刻まれているらしい。目に見えないものや、神仏に対して畏怖したり感じたりする力に長け、それを芸術で表現する力があり、しかも私利私欲無く周囲に尽くしてきた印があるらしいのだ。こんなにほめられたことはないので、かなり嬉しく、せっかくなので信じてみようと思った。太陽線という社会に出て成功を収めると言われる幸運な線がはっきりと中指まで伸びている。それは前から自分でも知っていた。「第一人者になれるはずですよ。その時には運命だと思っていやでも受け入れなさい」なんて、嬉しいんだか困るんだか分からないことも言われた。大きな存在が私を生まれながらに守って引っ張っていっているのだとも言う。自己犠牲とか、そういうことは断じてしてはならない。獅子座らしく、信じるままに派手に明るく突っ走るのが良いのだそうである。

そしてこうも言われた。「失礼かも知れませんが星は、巨人の清原と運勢が似ていますから、彼が打ち始めたら自分の運勢も上向きだと思ってください」むむむ、そうですか。
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ナンシー関 

ナンシー関が亡くなった。本当に驚いたし、とても悲しい。彼女は他人とは思えなかった。テレビ好きで知られ、事実それが職業でもあった彼女。「テレビは社会の窓」なんて言葉もあるが、相当の引っ込み思案であることが容易に想像出来る彼女にとってテレビはきっと社会そのものだったのだろうと思う。社会という言葉よりも、世間という言葉の方がしっくり来るかも知れない。

あの風貌が辛口批評のまなざしを生んだのか、まなざしがあの風貌を生んだのかは分からないけれど、アナグマみたいに自室に籠もり、嘲笑を浮かべながら世間の窓を見つめ消しゴムを彫る彼女の胸の内には、「あんな風に自意識を恥ずかしげもなく身にまとって、華やかに他人の前にしゃしゃり出てみたい」と思う女の子の孤独が、思春期の頃のまま残っていたんじゃないか、と推察する。

ちょうど今、呉智英の「バカにつける薬」を読んでいた。罵倒語を振りかざし思想界の有名人をバッサバッサと断罪していくベストセラーだ。呉智英もまた、野放図に自意識や劣等感を革命的、革新的思想のように装い、自分でもそうと信じて新聞や雑誌に寄稿し、本を出す者達がいやで仕方ないのだ。「むき出しの自意識」「恥ずかしげのない劣等感」を知的なもののように思想にすり替えるやり方に我慢がならないのだろう。「とても自分にはできはしない」と。

踊る阿呆にならなきゃ損だと言われても、なれないものはなれないのだ。醒めた眼線には楽しいことや浮かれたことなど人並みに訪れることはない。罵倒語を人に振りかざすたびに、自身の孤独は深まるだけだ。それでも、やっぱり許し難い。なにより、自分がそんな野放図な恥ずかしい者に成り下がりたくなどないという気概が捨てられないのだ。子供の時から世間への相容れなさに悩んできたことこそが自分の感受性への劣等感であり、同時に優越感でもあるからだ。

ナンシー関のエッセイを読む多くの人は彼女の有名人へ向けられた皮肉を喜んでいる。結局はそんなくだらない有名人に興味を持ち続けている自分自身のくだらなさに帰結していく批評の眼線に打たれるのが快いのだ。嘲笑は自嘲に等しい。でも、彼女の救いはその消しゴム版画の愛らしさだと思う。無論、その似顔絵の切り取り方も実に皮肉に満ちていて、描かれた本人には辛い。
が、絵にはタッチというものがあって、優しげにしていても慈しむ気持ちがなければタッチは投げやりになったりトゲトゲしたりするものだ。彼女のいつもタッチは丁寧で優しい。消しゴムという身近なものを画材として手のひらに握りながら刻むことが、彼女が寄せる世間への愛情だったと、私には思える。

叶わなかった初恋の振られたなりの恋心のような。

少年のけんか 

愛犬散歩で近所の土手を行くと、10人ほどの少年達が川で遊んでいた。川の中央にも少年が二人、なにやら話し込んでいるようだった。「…ってこったろうがよぉ。」と、二人の内、背の高めな少年が云い、答えに窮したらしい小柄な少年は、背の高い少年の胸ぐらをつかんだ。いとも簡単にのっぽ君はちび君を川の中に投げた。ちび君はすぐに立ち上がりなおものっぽ君に挑んだ。また川に投げられる。再び立ち上がったちび君は、のっぽ君とシャモみたいににらみあい、のっぽ君の浅黒い頬にパンチを見舞った。対照的なほど肌の白いちび君の握り拳は、いじらしいような音を立てた。

プフッというか、ポプッっというか、ダメージなど到底与えられないであろうと思われる音だった。ちび君の拳も、のっぽ君の頬も、まだ子供らしいプジャプジャした肌にくるまれているから、そんな音になるんだろう。 しかし、パンチはパンチだ。のっぽ君だって引くに引けなくなった様子でけんかはエスカレートした。

土手の上から通りすがりのおじさんが「いい加減やめろ~」と声をかけた。「いい加減」やめろ、と言うからには、しばらく事の推移を見ていたに違いない。おじさんはけんかにとっての「良い加減」を知っている男なんである。おじさんの一言でけんかはあっけなく収束してしまった。私はほっとしたと同時に、残念な気持ちにもなった。
なんだか、少年のけんかに感動してしまっていた。

やわらかに脂肪を含んだ肌にくるまれた子供の体の中から、戦いの欲求がこみあげる様子が見て取れた。まるで、さなぎの背が割れて成虫が現れる時のように、まるで違うものが顔を出している。 互いにけんかへの怖さもありながら「引くに引けない」と思う子供ながらのプライドにも感服した。怖さとプライドと戦いの欲求が、二人の身体をめいっぱい光らせ、二人は川の中で地球の中心になっていた。

彼らのいる川の中に、私も入り込みたい気持ちになった。川下に身を浸して流れてくる彼らのキラキラを感じてみたいと思った。無理だけどね。川の中に投げられて、川底の石に身体を打つのはどんな感じだろう。濡れたシャツが身体に張り付くのはどんな感覚だろう。相手の頬はどんなにやわらかく思え、相手の拳はどのくらい固く思うのだろう。それとも一切は真っ白なんだろうか?

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