OIKAWA,Satoko blog

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「ハッシュ!」を見る前の随想 

「ハッシュ!」という映画が流行っているのだという。「二十歳の微熱」を撮った橋口監督の最新作だ。子供だけほしい女性がゲイのカップルと協力し子供を持ち4人で家族を形成する、というもの。 テーマは自体は斬新ではない。吉本ばななの「キッチン」や、大島弓子の漫画にもある「新しい家族の形」がテーマだ。違うのは橋口氏自身ゲイであり、そのことを公表した上で描いた作品だということだろう。
同性愛といっても、異常でも扇情的でもない。「ハッシュ!」にしろ、ばななや大島弓子にしろ映画を見た後や読後の感想は「ほのぼの」流行の言葉で言うなら「癒し」である。 実をいえば、そんな「ほのぼの」は嘘っぱちに違いない。でも確かに女性は優しいゲイに癒される所があるのだ。

私の周囲には思春期の頃、ゲイの友人が複数いたので、親には心配をかけた。私にも問題があるのかと思ったに違いない。少女が性の入り口にいる頃、性への潔癖さからか、性の持つ暴力性を嫌ってか、同性愛に憧れる傾向が強いという。しかも、レズビアンではなく少年愛に憧れる場合が多い。完全に自分を除外し恋だけを夢見たいからだろう。

高校時代の友人にゲイのA君がいる。繊細で美意識が高く、話の合わないクラスメートなんかより彼といる方がずっと安らいだし楽しかった。彼の恋していた少年は校内屈指のハンサムだったが彼もゲイ。その彼が恋していたのがダビデ像そっくりの美少年。ダビデ君にはGFがいて彼女は大いに悩んでいたが、こればっかりは何ともしようがない。ハンサム君は女の子とも交際していて複雑怪奇な恋の鞘当ての結果、ちょっとした傷害事件を生んでしまった。

ビルの屋上のプレハブがA君の部屋だった。そんなことからも彼の家庭が難しい事情を持っていることは容易に想像できた。大塚英志の著書「子供流離譚」は新しい家族の形がテーマの漫画や小説を取り上げ現代社会の問題を論じている。新しい家族が問題解決の糸口のように書かれている。でもね、やっぱりそれは虚像だと思う。悲しみを共有するように寄り添っても家族にはなれない。

A君はハンサム君のGFと対決をした。悪いのはGFだった。しかし彼は男だし力もある。だから被害者はGFに見えた。彼は高校を謹慎させられ親にも殴られた。誰も彼を理解はしない。私だってしなかった。理解しようと思っていたら彼といて癒されることなどなかったに違いない。私はずるかったのだ。
ゲイに「癒される」権利など女性にも現代社会にもない。彼らの権利を認めずに安らぎばかりもらおうなんて虫が良すぎる話だろう。 だから、ゲイだと公表した橋口氏が紡ぐ物語には少し心が動かされている。自身の夢の形が現れているのかな?笑いが上がる劇場内がテレビに映る。とっても優しい映画だと観客は言う。笑った分、癒された分、私達は何をすべきだろうか?それを真摯に見極める義務があるのではないだろうか?
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藤山寛美のこと 

このところ、テレビで藤山寛美の特集をよく見る。藤山寛美といえば言わずと知れた大大大喜劇役者である。私は幸福なことに小学生か中学の始めにその舞台を見ることが出来た。私はとても藤山寛美が好きだった。何しろ子供が一人でも見に行くと言い出したのだからなんという趣味なのだ?と我が子ながら親は驚いたらしい。当時は「ひょうきん族」が人気の時だったように思う。「お笑い禁止」な実家ではそれらはみんな禁止だったけれど、藤山寛美はOKで、生まれて初めて一人で観劇に行くことが出来たのだった。

しかし、テレビが取り上げるほとんどは寛美の豪遊の伝説だということに私は首をひねる。「超高級車をホテルのボーイにポンとくれてしまう」とか「一晩に何百万も後輩のために使ってしまう」「うどん1杯5万」等、そんなことばかり言っている。240月間連続公演という、本当の意味で伝説とすべきことも取り上げられてはいるけど、その舞台の中身についてあまり言及されていないのだ。

豪遊は天才の闇ではないかと感じられてならない。そこをいくら褒めたって、本来の寛美の芸の部分になんら触れることなど出来ないのではないか?とも思う。事実、寛美は破産後、ほとんど遊ぶことをやめ舞台と舞台研究に明け暮れたと聞く。身体を悪くした芸人が自分の残る時間を考えた時、天職にのみ全てを向かわせようとしたことは良く分かる。しかし、そこをのみ「伝説」として舞台の鬼となった寛美を取り上げることも間違いだろう。そんなことは本来、舞台の上の「阿呆」寛美をだけ観ているだけで理解できるはずだからだ。豪遊も、ストイックさもみんな舞台の中にあったはず。天才の闇の部分も、鬼の部分も「阿呆」に内包されている。入っていても表面に出てこない。出てくるのはただ「阿呆」。そこが寛美の凄さなのだ。

見当はずれに寛美伝説を仕立てる人々は、芸をのみ突き詰めた天才の天才さに目を向けることもせず、簡単な「尋常でなさ」を取り上げることで理解したつもりになろうとしている。それは自分たちと同じ地平に引きずり落とすような所行ではないだろうか?自分たちの常識(金銭感覚)からして「尋常でない」と判断することで天才を立証するなんて失敬きわまりないことだ。あらかじめ違う地平で生き、表現をしていた人に自分たちの常識の物差しで計ることが無理であることくらい分かるだろう。「計れませんね~」と感嘆すること自体失礼だ。

あんな番組を組むくらいならNHKアーカイブみたいに、過去の舞台中継をひたすら流すようなことをして欲しい。DVDにまとめるとか、ボックスセットを作るとか、とにかく舞台を復刻させることの方が真摯な取り上げ方だろうと思う。舞台人を舞台裏で評価するなんて出来もしないし、失礼なだけではないだろうか? と、思った次第。

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