OIKAWA,Satoko blog

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「布施英利Bサイト・集う会」に参加 

昨日は解剖学を修めた美術評論家の布施英利さんのお宅へお魔した。布施さんのメールマガジンの会員を招き、布施さんご自身が集う会を催してくださったのである。作家の田口ランディさんや音楽家の巻上公一さんもいらして、とてもたのしいひとときとなりました。お忙しい中を、このような時間を用意してくださった布施さんに、またゲストに来て下さったランディさん、巻上さんに心からお礼を申し上げます。

会場である布施さんのお家は湯河原の旅館を自宅に改装したもの。その改造を手がけたのは布施さん自身!「死体を探せ」などで知られる布施さんだがその繊細な風貌に反して、びっくりするほどの冒険家であり、実践家なんである。お話しの大半は「家に忍び込む猿との攻防」や「イノシシ狩り」。無論机上の話ではない。布施さん自身の体験談だ。
そんな興味深い布施さんの話の区切りには、なんと贅沢なことにランディさんの話及びホーメイと巻上さんのホーメイを聞かせていただくコーナーまであり、本当に至福の空間となった。
巻上さんのホーメイが逸品であるのは当然のこととして、ランディさんのホーメイもとても良かった。ホーメイが良かったのか、声が良かったのか、音楽的なところでない部分に反応したのか自分でも良く分からないけども。
ランディさんが、あんなに背の小さいひとで、ものすごく「いっぱいいっぱい」な人であることになんだか感銘を受けた。私になんか言われる筋合いではないだろうけど、何だか人つきあいの苦手そうな、そのせいでいつも喉や肩に力を入れているような声だった。これがベルカント唱法であったなら、駄目といわれる歌になるかとも思うが、ホーメイであることによってビリビリ来たのではないか、と感じた。
布施さんも、巻上さんも本当に優しくて親切でランディさんの言葉を常にていねいに着地させるように会話しているところにも本当に感動してしまった。皆さん、布施さんと巻上さんは絶対良い方ですよ。
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テーブルマジック的 

私はマジックショーというのはあまり好きではない。デッカイ箱が出たり、ビルを消したり、炎がボン!とかちっとも楽しくないんである。私が好きなのは、目の前で手品をしてくれる「テーブルマジック」だ。カードとか、ヒモなんかでそーっと楽しませてくれる手品。

林家正楽という人を知っているだろうか?話をしながら切り絵(紙切り)をする芸人だ。(すごく有名なのは先代らしい)ずーっと見ていたくなる良い芸だ。今夜の「たけしの誰でもピカソ」は浅草寄席特集。正楽が出ていて嬉しかった。ショーというほど派手でもなく、時代性に富むわけでもなく、独自性があるわけでもないこういった「芸」はあまりテレビで取り上げられることがない。お正月NHKの初笑い番組で見るくらいだ。

同番組で、かつての名喜劇役者の紹介もあり私が子供の時とても好きだった人が出てきた。「伴淳三郎」という俳優。この人を好きだと思ったのは小学生の時分、横溝正史シリーズの映画にほんのちょい役の巡査となって出ているのを見た時だ。台詞がどうということではなく、間というのか、調子というのか、なんだかおかしみがあるのだ。それでいて全く他の俳優と絡もうとする演技ではなくて一人芝居をしているような孤高な感じ。しかも、とても品があった。(この人いいね、と父に言うと「当たり前だ」の返事だけが返ってきた。)こういう人、今少ない気がする。ホンとはいるのにテレビに取り上げられないから私が知らないだけなのかな?

三谷幸喜が再来年、大河の脚本を書くらしい。私は彼のテイストも「テーブルマジック」だと感じている。彼の作品に「今夜宇宙の片隅で」というドラマがあった。西村雅彦、石橋貴明、飯島直子が出演。登場人物はこの3人に近所の店のおじさん合わせて4人のみ。視聴率は低かったらしいが私はこのドラマがとても気に入っていた。舞台も3カ所くらいしか出てこない。三谷は元が舞台の人だからこういうセンスなのかと思う。このところ「脇役」俳優に人気があるのも結構彼の功績大だと思う。こういう「テーブルマジック」みたいなものがテレビで大きく取り上げられるようになるのは嬉しい。知られないところで、そっとていねいに仕事をしている人はいるのだろうけど、そういう人は今の時代すぐ芸術とか、文化人みたいに扱われてしまってどうかと思う。むしろどんどんテレビにも出て、高いところにおさまらないで欲しい。

だから、私は小堺一幾も結構好きだ。堺正章だって好きだ。「テーブルマジック」的芸人さんの私なりの判断法は「タップが上手」である。
テレビって大きな舞台だからテーブルにならないのかな?でも、テレビの中にもテーブルな部分ってあるように思う。定時に10分程度のニュースを読むNHKのアナウンサーも「テーブルマジック」的な印象。それこそNHK自体そんな感じがする。だから寄席の中継をしてくれるのはもっぱらNHKなのだろうか?

宇宙人&お化け 

中島らものエッセイを読んでいる。彼はホラーマニアで一日必ず1本はホラー映画を観るそうだ。私もホラー好きだ。ホラーとかSFが好きか嫌いかによって知人の感受性をタイプ別出来るように思う。

SFが嫌いな人には社会派な人が多い。ドキュメンタリーが好きだったり、実感を元にした表現を大事にしていたりする。「クローン」なんて話になったら大変。物語そっちのけで内蔵牧場とか倫理問題でつっこみを入れたくなるようだ。
ホラーが嫌いな人はすぐ「生理的にだめ」とか言ってホラーを好む人を蔑む。実際恐がりな人もいるし、「恐がりである自分」を主張しておきたいという人も少なからずいる。ホラーにはB級映画が多いのでB級であることを楽しむことの出来る人でないと「気持ち悪い」だけになるんだろう。(同じ理由でカンフー映画が嫌いな人はホラー嫌い度が高いと推察。)

ホラー、SF嫌いともに言えるのは「お化け」が出てきたら「お化け」としか見ないし「宇宙人」が出てきたら「宇宙人」が出てきた、とだけ感じてしまう人だということだ。「そんなのいないじゃん」と言うところで引っかかってしまうんだと思う。 比喩とか言い換えとか象徴とかそういうことを柔軟に楽しめたり探ったりしないとお化けや宇宙人は「気持ち悪くて怖くて馬鹿みたい」なだけになってしまう。

同じメッセージを「トラウマ」とか「思春期の不安定さ」なんて言葉で論じれば受け入れらることも多いのかもしれないのに、あえて「お化け」や「宇宙人」や「超能力」にしてしまうところに本当は意味があるのだろう。 物語の力をこそ信じるかどうか、みたいなことだと思う。
社会派な人やジャーナリスティックに現実に切り込む人と同じくらい、物語で表現をする人がいないと多分文化の帳尻は合わなくなるのではないか。

見えないものを見える形に表現する力、見える形の中に見えない意味を探る力、空気や気配に意味を与える力、それを畏怖したり共有したりする力、これらは太古から人間が持っていた動物的本能を文化的に体系化するものだったように思う。伝説や神話や宇宙観はこのようにして生まれたのだろう。
迷信に根拠はないかもしれないけど「理由」はあったに違いない。その理由こそ核心だ。おまじないをくだらないという前に人は何を怖がって、なんでイワシだのニンニクを用いたのかを探ることに意味があるし面白味もある。

柳の下を通る時は息を止めて親指を握らないと母親が早死にする、というジンクスを守った子供心は、簡単に馬鹿にしちゃいけない大事なものを含んでいる。だから柳の下を通る時いまだに私は息を止めている。

E・T リメイク版について 


「E・T」がリメイクされる。言わずとしれたスピルバーグの名作中の名作だ。ここで「あれが名作?」などという人は踏みとどまってもう一度観て欲しいと思う。無論、20年前のバージョンを。とてつもない動員数を記録した「E・T」「未知との遭遇」当時大衆の人気に反して映画界の評価は低かった。やっとオスカーを取ったのは「シンドラーのリスト」良い映画かもしれない。しかし、私には同じ戦争をテーマにした彼の映画なら「太陽の帝国」の方が優れていると思っている。「太陽~」もオスカーの候補になったが「人間が描かれていない」などと言われ賞は得られなかった。

「人間が描かれていない」ことの何が悪いのか?彼の初期の映画には、誰でも楽しめて感動できる物語の裏に、いつも理由の分からない不安や父の不在や孤独を自覚していない子供、大きな力に追いかけられる恐怖などが感じられた。「人間を描けない」彼のパーソナリティの闇がはっきりと描かれていたのだと思う。その闇は、宇宙人というトリックスターを作り上げる欲求のもとだったのではないだろうか?彼は自分の闇を見失ったかに見える。まるで自分が昔からファンタジーを夢見ていて人道的で、子供達と子供心を持つ大人のために映画を作り続けているかのように信じ込んでいるように思う。片側に花畑、片側に底なしの穴というあのファンタジーこそスピルバーグの世界だったはずなのに。

リメイク版ではE・Tを追う大人をふりきるため、エリオット達の乗る自転車を空に浮かせるシーンで、大人が持っていた銃をトランシーバーに代えているのだという。「子供のシーンに武器はふさわしくなから」などと語るスピルバーグに私は憤った。E・Tにおいてそのラスト以外大人は全て恐怖と不安と暴力の存在として描かれていたはずではなかったか?不安症気味の母以外は子供を追いつめ威圧する「男性」達だったはずだ。そしてラストやっと顔が出て優しくE・Tへの自身の想いを語る「大人の男性」が「父なるもの」であり「かつて少年だった」者であり、その人にエリオットを出会わせたのがE・Tというトリックスターだったことに意味があったのではないのか?

銃をトランシーバーに代えれば、暴力が消えるという考えの安易さ。暴力が消えて何が生まれたというのだろう。闇が消えた時彼の夢は醒めてしまうだけなのに。闇が黒々と魂を飲み込んで初めて立ち現れるファンタジーだったはずなのに。

「A.I」の空虚さは彼の現在を表している。特撮はもう彼の夢を具現化しない。A.Iは愛を得られなかった。「E・T」においてE・Tは父なる者を連れてきたけれどA.Iの宇宙人はまぼろしの母を見せただけだ。スピルバーグのファンタジーはまぼろしを見せるだけになってしまったのだろうか。

大岡越前 

夕方4時TBSといえば再放送。この間まで「渡る世間は鬼ばかり」という脚本家の鬼差加減に度肝を抜かれるドラマをやっていて危険な時間帯だったが、今日気が付くと「大岡越前」をやってた。いつのものかとワクワク、私は大岡フリークなのである。 大岡の初期のものは本当に面白い。いつか再放送をしていたら見て欲しい。加藤剛も、竹脇無我も若くて良い。話も面白い。大岡とは今で言う裁判官だからジャンルで言えば法廷ものということになろう。蘭学を修めた養生所の医師は今で言うところの法医学者の役所。その二人が親友同士、将軍吉宗と大岡は深い信頼で結ばれている。大岡は絶対法を曲げないから証拠と論を駆使して人情を通すところがものすごく面白かった。未だに法廷ものを私が好きなのも幼い頃から大岡を見ていたからに違いない。

しかし、残念なことに今放送されているのは最近の大岡これは見ないと決めた。 筋が面白くないとか、演出がふるわないとか時代劇が演歌並みに人気がないから無理に現代におもねててアイデンティティーがなくなったとか(ってほどのものか?とも思うけど)いろいろ原因があるだろうけど一番の問題は若々しさなのかもしれないと思う。初期のおなじみの俳優達は大半が亡くなってしまったし加藤剛も竹脇無我もおじいさんに近い。もういい加減「庵もいい加減祝言を」なんてものすごく変。タラちゃんが永遠にバブーなのとは話が違うだろう!とつっこみを入れたくなるのも無理からぬことではないだろうか?

架空のクラスメイト 

最近の古本屋は容赦がない。良い本だろうと稀少本だろうと100円だったりする。本もリサイクル品のひとつとするかららしい。無論ありがたい話ではあるのだけれど…。

近所のブックオフにて島田雅彦の本を100円で見つける。かわいそうになって購入。私は彼がかなり好きだ。初めて読んだ時は太宰みたいな甘えた嘘つき的演出っぽさが鼻に付いたんだけどそんなこんなも含めて今は好き。
100円で購入は「君が壊れてしまう前に」。秋元康ばりのタイトルに少し引いたが内容はそこそこの当たり。

島田雅彦と言えば音楽好きで知られてもいて、以前、林真理子とオペラの特番でゲストで呼ばれていたのを見たことがある。島田が彼の持論をほんの少し話したところ、すさまじいいきおいで林真理子に押しつぶされていた。しかも林真理子は、真っ正面から島田の意見を否定しながらも、彼を見やることもなく司会者に向かって意見を述べたのだった。その時の島田雅彦は怯えたうさぎ。嘘偽りなく怖じ気づいていた。彼の知性も諧謔も林真理子の前には何の力にもならない様子。重量が熱量を生むという物理の法則が脳裏をかすめた。

クラスに島田雅彦がいたら恋しちゃった気がすると言うとOTTOは「する、する。君はするね。」と即答。あとクラスにいて欲しいのは白州正子と松浦理英子。赤いランドセルを鎧に給食袋を振り回し男の子をトイレに押し込んで遊んでみたいのである。

句読点問題2 

先日の「句読点問題」の続編。台詞の括弧内に「。」を書く作家、書かない作家研究。数年前に芥川賞を受賞した平野啓一郎はきっと付けているのではないか?と想像し、確かめたところ付いていた!しかし、芥川や漱石、太宰、鴎外など近代文学も軒並み「~。」はなく、「」内には台詞のみであることが判明。「。」が付いている作家はというと小川未明や、坪田譲治など児童文学方面のようす。しかし、高橋健二の訳の場合はない。しかし、不思議だったのは川端康成。文庫本で確認したところある一冊は収録短編全て「。」違う短編集はすべて「。」なし。どういうことなのだろう。ほとんどの場合「。」のない記述がほとんど。そのためもしかして編集者がそこら辺を変えてしまっているのではないだろうか?と想像した。だとしたら、結構問題な気もするのだが。本当のところ分からないけど。

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