OIKAWA,Satoko blog

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人魚姫 

人魚姫はもう一度、 かすんだ目で、王子様を見つめました。 そして、船から海の中へ飛び込みました。 からだが溶けて泡になるのを感じました。
朝日は海から昇り始め、 光がやわらかく、あたたかく、 死のように冷たい海の泡の上に落ちます。けれど、人魚姫は死ぬことなど少しも感じませんでした。
頭の上に、透き通った美しいものがいく百となく漂っていました。 美しいものの声は音楽のようでしたが、それは魂の音楽であって、 人間の耳には聞こえませんでしたし、 その姿は人間の目には見えませんでした。

美しいものはとても軽いので、 羽がないのに空中を漂っていました。 人魚姫は自分のからだも、同じようになるのを見ました。
そして、人魚姫のからだは海の泡の中から、 美しいもの共に空を流れ来た バラ色の雲へ舞いのぼっていきました。

アンデルセン童話「人魚姫」より

以前、インタビューを受けた時のこと。聞き手の方の用意された質問に「初めての美的経験は何ですか?」というものがあり、私はすぐに答えることが出来なかった。まずもって、「美的経験」とは何なのか、分かりかねた。

その質問の意味を伺うと、つまり、美術作品などで初めて感銘を受けたのはいつ、どのような作品か?といったことだということだった。

しかし、私にはそのようなはっきりした記憶というものはなかった。両親は私がまだ赤ん坊のような頃より展覧会に連れて行ったらしい。そのため、「はじめて」といわれても薄ぼんやりと美術を見る経験は始まっている。とても答えは探せない。

思案を重ねたあげく私の答えは「人魚姫のラストシーン」ということになった。心理学の連想ゲームのように、インタビュアーの質問は私の深層心理を探らせ、自分自身でも気付かないでいた「美意識」に気付かせてくれたのだった。

人魚姫が泡となったその様子を子供の私は「美しい」と思った。童話を読むとき、子供の目前にはどんな映画も、アニメも実現不可能なリアルな想像の世界が広がるものだ。その童話が秀逸であればあるほど、そうだろう。人魚姫の泡は私の周りいっぱいになった。

物語は、救いのように、そして教訓のように「空気の娘」のせりふによって人魚姫のその後を明るい方へ暗示して終わる。しかし、そのせりふなど、私には大きな意味を示さなかった。私はその泡こそ、全てだと思った。かわいそうで、切ないラストだ、と分かってもいたろうが、むしろ私に残ったのは、圧倒的なその泡の「美しさ」だった。

子供の時、私は人魚と共に泡になったのではなかったか?
と思う。一心に物語の中に入り込み、悲恋と死を突き抜けて。 「泡が美しい」という「美的経験」は私に確たる「美意識」を植え付けた。

悲しいだとか、正しいだとか、優しいとか、残酷だとか、そういったものは全てどれがどれより優れているわけでもなく、また、それ自体が目的にはなり得ないと私には感じられる。それら全てを内包し、かつ、超越するものこそ「美しい」ものなのだ、と確信している。

美術という世界で自分が何かし続けることが出来るのだろうかと、いつも不安になるけれども、私にとって、「美」というものは作品の中にだけあるものではない。
だから、私が目指す「美」というものも、きっと制作の中でのみ探りうるものではないのではないか?と思っている。
もしかすると、そんな風に思っているから、制作が甘いのかもしれないと反省もするけれども…。

でも、2002年の元旦の今日、私が願うことはこうだ。
「自分が死ぬとき、 人間の耳には聞こえない、 美しいものの魂の音楽を聴き、人間の目には見えない美しいものの姿を見て、その透き通ったもの達と 同じになれるようでいたい。」

その時のために、耳を澄まし目を凝らして、いつも「美しいもの」を感じられるように生きていたい。そう生きようと努力することこそ、私の「美意識」なのだと思う。

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このブログについて 

このブログは、及川聡子の制作や日々のさまざまな思いなどを記録するブログです。2002年からHPや他所で書いていたこともまとめて再掲載しています。
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