OIKAWA,Satoko blog

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2013年元旦 

年賀状



ネットのつながらない山のアトリエでの生活が中心になった2012年。
そのためか、ブログの更新が滞りがちな一年でした。
にもかかわらず、このブログに訪れて下さるみなさまに感謝申し上げます。

今年は、表裏全長18mという大きな襖絵の制作を始めます。
湯気がモチーフの「水焔シリーズ」となります。
湯気の観察は、ボールや鍋などの器から立上らせて行うため、
湯気の立ち姿に対峙するような捉え方となり、
構図としては縦長のものが多くなります。

襖絵は、大変に横長な構図になりますので、
これまでのように、湯気の立ち姿を描くわけにいきません。
自分の周囲を湯気が囲み込むような、
景色としての湯気を描く必要があるだろうと考えています。

もっと湯気の中に自分が入り込み、
自分が湯気にくるまれたような見え方を開発すべく、
湯気の観察とドローイングに取り組んだ2012年でした。
その成果の試される2013年。がんばりたいと思います。

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香焔・お香の煙の観察方法 

香焔下図3
画像はお香の煙の下図、クラフト紙に鉛筆で描いたもの。

9月3日から始まる第3回三叉景には、
お香の煙の「香焔」と兎の「福」の作品を出品予定。
湯気をモチーフに描いている「水焔シリーズ」は、
「煙ですか?」とたずねられることが多い。
だからという訳ではないけれど、今回はその「煙」を描いてみた。

煙は湯気よりも形が把握しやすい。
煙は微細ではあっても煤である。
不透明な物質が舞い上がっている姿だから、
きっと「掴みやすい」のだと思う。

湯気は加熱を止めてしばらくが最も良く観察でき、
お湯の温度が下がると、湯気の動きも遅くなり、姿も薄らぐ。
冬場なら、5分ほどしか持たない。
湯気の姿が見えなくなったら再沸騰、また5分観察……という風に、
休み休み集中することになる。

その点、お香は置き墨の上で熱せられるままなので、
姿もくっきり、高速で立ち上り続けるため、
真剣に見つめると2,3秒で目が回るし、
ジェットコースターに乗ったような、
3D酔いのような感覚に襲われ、具合が悪くなる。
だから、長く観察するにはあえて、眼のピントをぼかし
ポヤヤンと見やるという風にするのがコツである。

形の描写は写真や動画を助けにするが、
見え方、速度感、動きのリズムは見て記憶するしかない。
眼で見て、背筋で記憶するというイメージだろうか。
私はダンスがまったく出来ないけれど、
背筋を天に伸ばしながら、クルクルと身体を回して、
空気を抱え込み、流れるように手足をひらり、
そんな身体感覚に移し替えて、煙を記憶してみた。

香焔下図4点
香焔シリーズ4点の下図を並べたところ。全てクラフト紙に鉛筆。

本画は紙に墨のみで制作。
会場で、ご高覧いただければ幸いです。

水焔の10枚目 

水焔10部分

8月1日から始まる、タカシマヤXでの水墨画の3人展に向けて、
水焔シリーズの新作を制作中。
写真は作品の部分写真。

これまで選んでいたものより厚めの、
2丁樋重目という絹に描いている。
ほんの少しの差なのだろうけれど、
体感としてはずいぶんしっかりと違いを感じる。
筆に感じる絹の弾力も強いし、
絹が含む量も多いような印象だ。

墨だけで仕上げたことはこれまでなかったのだけど、
今回は、墨のみで完成させてみようと思っている。

湯気について1 

湯気を描いている間、何度も浮かぶのは、
中也の「臨終」の一節、「うすらぎて 空となるか?」という部分。
中也の詩には、空からいろいろなものが降ってくる。
自分の請うものが、空にはあると中也は繰り返し詠んでいる。
降りてこなくても、漂いながら近づいて、
手は届かないとしても、姿を見せてくれる、と。

臨終という詩は、モノトーンの悲しい詩だけれども、
空となるか、としめくくるのは、中也にとっての救いに違いない。
空となるか、には「?」が付いていて、
なるかならぬかの答えはどこにもなく、
中也の一方的な願いが宙づりになっている。

思えば「うすらぎて 空となるか?」という問いの一節は、
中也を読むようになった思春期の頃から、
私の中にも、宙づりの問いとして棲みついていたのだけど、
今は、確かに「空になるだろう」と、信じている自分がいると気付く。
そりゃ、中也より、もう10以上も長い生きしたんだもの。

「空となる」と信じているなんて、中也が聞けば、
どんなにか侮蔑されるだろうという気もするけれど、
あまり人にも会わず、山の画室にいて、
広い空の下で、湯気など毎日見続けていれば、
自然の理は、考えるより優しいものだと、信じることは容易なのだ。

うすらぎて 空となる

恩寵は、見ようと思えば、見ることが出来る。
中也の問いの答えは、私の前に事象として見えている。



臨終  中原中也

秋空は鈍色にして
黒馬の瞳のひかり
  水涸れて落つる百合花
  あゝ こころうつろなるかな

神もなくしるべもなくて
窓近く婦の逝きぬ
  白き空盲ひてありて
  白き風冷たくありぬ

窓際に髪を洗へば
その腕の優しくありぬ
  朝の日は澪(こぼ)れてありぬ
  水の音したたりてゐぬ

町々はさやぎてありぬ
子等の声もつれてありぬ
  しかはあれ この魂はいかにとなるか?
  うすらぎて 空となるか?


(追記
 その腕の優しくありぬ
   朝の日は澪(こぼ)れてありぬ
   水の音したたりてゐぬ

 のところをあらためて読んで、
 朝の日もこぼれていいるし、
 水の音もしたたっていていると気付く。
 中也はいつもこんな風に、
 美しいものが落ちてきたり、降ってきたりする。
 だから、その腕は優しく見えるんだろう。
 中也の上下はいつもそう。優しいもの、美しいものはいつだって上にある。
 だから、下に落っこちていた月夜のボタンは、
 どうしたって、捨てられずにポッケにしまう。

クラゲ と ヘ音記号 

デッサン
新作の下図。左側が上になる。

ドローイングを見ていただくということを初めて経験。
私は結構、動揺してしまった。
デッサンやスケッチ、下図なら、誰かに見てもらうことはあるけれど、
ドローイングは、全く人の目を想定せずに行っているので、
本当に恥ずかしいような、隠れてしまいたいような気持ちになった。

今、取り組んでいる「水焔」のシリーズ、モチーフは「湯気」である。
湯気は動きが速い。
動きの速い鳥などの場合、決まって同じようなポーズを繰り返すから、
いくつかのスケッチを同時進行させることで、描くことが出来る。
けれど、湯気は二度と同じ姿にならない。
写真も動画も撮影して参考にはするが、
実際に目で見る、動きの印象がないと、湯気らしく描けない。

ドローイングの場合、ドローするわけだから、線で描くのだけど、
湯気は線で描くと、湯気にならない。
光を描画するのに似て、線では捉えにくいのだ。
そこで、画用紙を鉛筆で塗りつぶして、
練り消しや消しゴムで描画することにした。

見てる間に動くから、
動く印象を身体に覚えさせるような感じで、
練り消しでフイフイィッと湯気を描く。
そして、覚えている湯気の形を元に、
角をとがらせた消しゴムと鉛筆で、
練り消しの線を成形して湯気に近づける。

そうして出来上がったドローイングは、
クラゲやヘ音記号のような姿なので、
誰も湯気には見えないに違いない、と思っていた。
だから、それを見ていただくということになって、
それはもう、風邪の発熱が瞬間、
零下になるほどの焦りに見舞われたのだ。

そんなに動揺したり、焦ったりするのは、
実力より立派に見てもらいたいと思っているからだ、と気付く。
これが今の精いっぱいなのだから、と、
腹をくくって、見ていただいた。

水焔の新作の方は、そんなクラゲやヘ音記号のおかげで、
かなり湯気らしく出来上がってきている、と思う。


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