OIKAWA,Satoko blog

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お笑い 

年末年始といえばお笑いばかり流れるテレビ。

テレビアンテナが風で折れて以来、テレビを見ないで2年暮らした。今年引っ越しをして、アンテナのある家に暮らす今もテレビはあまり見ない。ニュースなどはネットで大体事足りる。テレビを見ないことで分からなくなる分野は「お笑い」かな、と思う。

最も分からなかったのは、数年前に流行った「フォー!」って、アレ。知人からのメールの最後に「フォー!」なんて書いてあって、何のことやら???。その後、テレビでレイザーラモンを見て、これかぁ、と分かったけど、すでに流行りが下火だったので、何がどうみんなに受けたのが分からずじまいだった。

昨夜、お笑い好きのOTTOがお笑い番組を見ながら「分からん、もう分からん」と嘆いていた。2年のタイムラグのせいか、今流行らしいお笑いの人々を見ても、どこがどう面白いのか分からないらしい。私はテレビを見ることもなく、音だけ聞いて人形を作っていた。

映画でもお笑いでも見た目以上に音や声、リズムなどに反応する私にとって、最近のお笑い芸人の声は魅力的じゃなさ過ぎてどうしようもない。リズムも悪いし、聞いていてはらはらする。そんな中、小島よしおの声はおでこの辺りをグーっとこぶしで押されているような粗暴な圧力があって理解しやすかった。でも私は裸が怖いので彼は苦手です。

そんなこんなで「あ~、落語が聞きたいな」と思った。私が子供の時から好きだった落語家は10代目・桂 文治さんと桂 枝雀さん、現存する落語家さんでは柳家 小三治さん。柳家小さんさんや桂米朝さんも聞きやすくて、子供の時は好きだった。
大人になって古今亭 志ん生をテープで聞くようになった。志ん生はどこを聞いたって可笑しい。「えー」だけでも「へぇ」だけでも可笑しい。あの声とテンポで全身の筋肉が緩む。志ん朝さんももちろん聞きやすく好きだったけれど、志ん朝さんの声は強い緊張感があって、筋肉が緩むという気はしなかった。
桂 文治さんも聞いていると緩んだなぁ。でも、時々、話すのが止まるから「どうしたんだろう?忘れちゃったのかな?」と思うと、また話しだす。それが妙に面白かった。
枝雀さんは声やアクションの緩急がすさまじく、ジェットコースターのようで大好きだった。緊張の緩和について良く語っていたとされる枝雀さんは、確かジャッキー・チェンの動きのことも褒めていたと記憶している。亡くなられた時はとても悲しかった。そして同時に、そういうつきつめ方をされていたんだろうな、というような気持ちになった。

そんな私は元気の無い時など、中川家礼二、山口智充、岡村 隆史、タモリクラブ、空耳アワーなどと入力、You Tubeを検索し、笑ったりする。枝雀さんを検索すれば「すびばせんでぇ」だってすぐに聞ける。ネット万万歳。
そうそう、年内最後の「徹子の部屋」は毎年タモリがゲストでネタをする。これが私には結構毎年楽しみなのだった。タモリがネタをするなんて、今や徹子の部屋でしか見られない。勿体ないな。モノマネが得意だったり、ダンスが得意だったり、芸人の人はやっぱり芸が達者でいて欲しい。
でも、そういうネタや芸が見られるのは深夜番組が多いのはなぜなんだろう。ゴールデンは少しもつまらない。私が時代遅れだということの証拠かな。

年末年始、きっと私はテレビを消してYou Tubeを検索し、初笑いを探すだろう。
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藤山寛美のこと 

このところ、テレビで藤山寛美の特集をよく見る。藤山寛美といえば言わずと知れた大大大喜劇役者である。私は幸福なことに小学生か中学の始めにその舞台を見ることが出来た。私はとても藤山寛美が好きだった。何しろ子供が一人でも見に行くと言い出したのだからなんという趣味なのだ?と我が子ながら親は驚いたらしい。当時は「ひょうきん族」が人気の時だったように思う。「お笑い禁止」な実家ではそれらはみんな禁止だったけれど、藤山寛美はOKで、生まれて初めて一人で観劇に行くことが出来たのだった。

しかし、テレビが取り上げるほとんどは寛美の豪遊の伝説だということに私は首をひねる。「超高級車をホテルのボーイにポンとくれてしまう」とか「一晩に何百万も後輩のために使ってしまう」「うどん1杯5万」等、そんなことばかり言っている。240月間連続公演という、本当の意味で伝説とすべきことも取り上げられてはいるけど、その舞台の中身についてあまり言及されていないのだ。

豪遊は天才の闇ではないかと感じられてならない。そこをいくら褒めたって、本来の寛美の芸の部分になんら触れることなど出来ないのではないか?とも思う。事実、寛美は破産後、ほとんど遊ぶことをやめ舞台と舞台研究に明け暮れたと聞く。身体を悪くした芸人が自分の残る時間を考えた時、天職にのみ全てを向かわせようとしたことは良く分かる。しかし、そこをのみ「伝説」として舞台の鬼となった寛美を取り上げることも間違いだろう。そんなことは本来、舞台の上の「阿呆」寛美をだけ観ているだけで理解できるはずだからだ。豪遊も、ストイックさもみんな舞台の中にあったはず。天才の闇の部分も、鬼の部分も「阿呆」に内包されている。入っていても表面に出てこない。出てくるのはただ「阿呆」。そこが寛美の凄さなのだ。

見当はずれに寛美伝説を仕立てる人々は、芸をのみ突き詰めた天才の天才さに目を向けることもせず、簡単な「尋常でなさ」を取り上げることで理解したつもりになろうとしている。それは自分たちと同じ地平に引きずり落とすような所行ではないだろうか?自分たちの常識(金銭感覚)からして「尋常でない」と判断することで天才を立証するなんて失敬きわまりないことだ。あらかじめ違う地平で生き、表現をしていた人に自分たちの常識の物差しで計ることが無理であることくらい分かるだろう。「計れませんね~」と感嘆すること自体失礼だ。

あんな番組を組むくらいならNHKアーカイブみたいに、過去の舞台中継をひたすら流すようなことをして欲しい。DVDにまとめるとか、ボックスセットを作るとか、とにかく舞台を復刻させることの方が真摯な取り上げ方だろうと思う。舞台人を舞台裏で評価するなんて出来もしないし、失礼なだけではないだろうか? と、思った次第。

テーブルマジック的 

私はマジックショーというのはあまり好きではない。デッカイ箱が出たり、ビルを消したり、炎がボン!とかちっとも楽しくないんである。私が好きなのは、目の前で手品をしてくれる「テーブルマジック」だ。カードとか、ヒモなんかでそーっと楽しませてくれる手品。

林家正楽という人を知っているだろうか?話をしながら切り絵(紙切り)をする芸人だ。(すごく有名なのは先代らしい)ずーっと見ていたくなる良い芸だ。今夜の「たけしの誰でもピカソ」は浅草寄席特集。正楽が出ていて嬉しかった。ショーというほど派手でもなく、時代性に富むわけでもなく、独自性があるわけでもないこういった「芸」はあまりテレビで取り上げられることがない。お正月NHKの初笑い番組で見るくらいだ。

同番組で、かつての名喜劇役者の紹介もあり私が子供の時とても好きだった人が出てきた。「伴淳三郎」という俳優。この人を好きだと思ったのは小学生の時分、横溝正史シリーズの映画にほんのちょい役の巡査となって出ているのを見た時だ。台詞がどうということではなく、間というのか、調子というのか、なんだかおかしみがあるのだ。それでいて全く他の俳優と絡もうとする演技ではなくて一人芝居をしているような孤高な感じ。しかも、とても品があった。(この人いいね、と父に言うと「当たり前だ」の返事だけが返ってきた。)こういう人、今少ない気がする。ホンとはいるのにテレビに取り上げられないから私が知らないだけなのかな?

三谷幸喜が再来年、大河の脚本を書くらしい。私は彼のテイストも「テーブルマジック」だと感じている。彼の作品に「今夜宇宙の片隅で」というドラマがあった。西村雅彦、石橋貴明、飯島直子が出演。登場人物はこの3人に近所の店のおじさん合わせて4人のみ。視聴率は低かったらしいが私はこのドラマがとても気に入っていた。舞台も3カ所くらいしか出てこない。三谷は元が舞台の人だからこういうセンスなのかと思う。このところ「脇役」俳優に人気があるのも結構彼の功績大だと思う。こういう「テーブルマジック」みたいなものがテレビで大きく取り上げられるようになるのは嬉しい。知られないところで、そっとていねいに仕事をしている人はいるのだろうけど、そういう人は今の時代すぐ芸術とか、文化人みたいに扱われてしまってどうかと思う。むしろどんどんテレビにも出て、高いところにおさまらないで欲しい。

だから、私は小堺一幾も結構好きだ。堺正章だって好きだ。「テーブルマジック」的芸人さんの私なりの判断法は「タップが上手」である。
テレビって大きな舞台だからテーブルにならないのかな?でも、テレビの中にもテーブルな部分ってあるように思う。定時に10分程度のニュースを読むNHKのアナウンサーも「テーブルマジック」的な印象。それこそNHK自体そんな感じがする。だから寄席の中継をしてくれるのはもっぱらNHKなのだろうか?

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