OIKAWA,Satoko blog

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お返事と震災日記 

震災後、いただいておりましたブログへのコメントのお返事を、
昨夜、やっと書き込みいたしました。
少しずつお返事していくことも考えたのですが、
“この方にお返事して、この方にお返事できない”
というような状態になるのが申し訳なく思えて、
一時にお返事したいと思ったことから、返信が遅くなりました。
申し訳ございません。

ネットにつなげられるようになった日、
届いていたコメントに、
どれほど元気づけていただいたか分からないほどです。
心より、感謝いたしております。

また、3月11日からの日記を、日を遡ってエントリーしています。
現在、3月11日から14日までupしています。
3月分のエントリーはこちらです。
http://skycastle07.blog105.fc2.com/blog-date-201103.html

誰のお役に立てるわけでもない内容ですが、
自分にとって、きっと大事な記憶になるように思い、
ブログに載せておこうと考えました。

余震の度に、道路が壊れ、
直しては壊れ、直しては壊れの連続ですが、
それでもここ、柴田町はもうほぼ日常を取り戻しているように見えます。
おかげさまで、我が家の引っ越しも今月10日に完了予定です。
今は、自分たちで運べるものを新居に運び、
新居での生活がベースとなっています。
まだまだ余震の続く宮城ですが、
傾いた旧居に比べれば、はるかに安心な日々となっています。
ガソリンタンクを積んだ車を見ても、
先月までのように「おおっ!!」と思うこともなくなりました。
お店には品物も並び、お一人様○点まで、などという制限も、
水やたばこなど以外では無くなってきました。

これからは、今まで自分がいただいた励ましを、
自分が誰かにお渡しすることができるよう努めてまいりたいと思います。
そうして、励ましの思いが、身近な人から身近な人へ、
つながって、広がり、
遠くない未来に、この国が復興しますよう祈っております。




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3月14日 文句おばさん 

プレハブの床は冷えるので、敷布団などを運ぶため自宅に戻る。途中、普段からよく利用するスーパーが開いているのに気づく。
20人ずつの列を作り、列ごとに移動して順番を待つ。5~10人ずつ、店の前に並べてある商品から1人10点まで買うことができる。2分以内に買い物をするようアナウンスされる。列に並んでいる間にスーパーからアメがくばられる。商品の最後に並ぶ野菜と納豆は5つまで無料提供とのこと。たばこ、生理用品は係りの人に言うと売ってくれる。地域密着型の小振りなスーパーなのだけれど、この非常時での細やかな対応に感心してしまった。

列の前には、文句ばかり言っているおばさんがいて、始めは「やだやだ」と思っていたが、その語り口が妙にかわいらしいので、いつのまにか聞き入ってしまった。周囲のおばさんたちも文句おばさんの話術に引き込まれて、笑ったり共感したりしていた。
震災後しばらくの私は、不安さのためか、危機感のためか、あきらかに平常時とは人間関係の距離は縮まって感じた。見ず知らずの人にでも、笑いかけたり声をかけたりすることにまったくためらいを感じない。OTTOそうだと言っていたし、周囲を見ても、皆そんな様子だった。
買い物を待つ列が日陰に入ると、寒さが堪える。愛くるしい口調で、今度は寒さに文句を言っているおばさんを見かねて、となりのおばさんが自分のマフラーを貸してあげていた。
「あら、あら、どうも」なんて、軽くお礼を言ったと思いきや、再び、文句を言い始めるおばさん。そんなやりとりの全てが、不思議なほど、ほほえましく思えたし、可笑しく思えた。

OTTOはサバ水煮缶×2、コーン缶×2、ツナ缶×2、オレンジジュース500㎖×2、ブドウジュース500㎖×2。私はささ身缶×1、チーズ×1、ミニドーナツ×1袋、あらびきソーセージ×1包、グレープフルーツ×1、さつまいも×1袋、レトルトカレー×2箱、豆乳×1パック、ほたてひも缶×1。それに、無料提供の野菜、オクラ、ニラ、春菊、カイワレ、セロリ、つぼみ菜、ピーマンを手に入れた。

山では父が普通に仕事をしていた。19日からの「父・娘展」はどう考えても開催は出来ないと思われたが、展示用の台をひとつ作る約束をしていたので、作ると言ったからには作っておくのだと父は言うのだった。
6月にはもうひとつ二人での展覧会が予定されていたが、それもキャンセルになった。「また、二人で展覧会できるかなぁ」と私が言うのを、父は無言で聞いていた。

3月13日 家の傾きに気付く 

朝、家の室外、室内を見て驚く。お風呂場、OTTOの仕事部屋の辺りが基礎から崩れているのが分かる。玄関の鍵も閉まらないし、私の部屋のドアも開かない。部屋の壁もいたるところにヒビが入り、床も隆起したり、極端に下がったりしている。余震によって、家の状態が悪化しているのは明らかだった。

「頷くと、家が揺れるように思うんだけど」とOTTO。私も頷いてみると、家ごと揺れて感じる。今思えば「地震揺れ」というもので、船酔いのような状態だったのだろうが、その時は今にも自宅が倒壊するような不安が襲って、足が震えてきた。

この家は危険なので、山の上の父のアトリエに避難しようということになり、真剣に荷造りを始めた。OTTOはパソコン類を、私は画材等をまとめた。私の絵の具棚は倒れなかったし、絵の具ビンもプラスチック製なので全く被害がなかった。硯も無事だった。
運び出せない大事なものは、一番被害のない部屋の机の下にまとめた。

山まで2往復して荷物を運んだ。この過程でガソリンがかなり無くなってしまった。
山にいた父に、アトリエを貸して欲しいと頼むと、実家に泊まれば良いと言われるが、ただでさえ、実家には家の中にジャーマン・シェパード1匹、アビシニアン1匹、鳩5羽いるのに、我が家のネル(柴犬よりやや大きい)とうさぎのフク(80cmほどのケージ入り)が一緒では、避難生活が大変なことになってしまう。山には父の銀鶏もいるので、その世話もあるし、自分たちは山で過ごすと話す。

父のアトリエは大きなプレハブで、家具などないから物の転倒等の心配が無い。余震も続いているが、自宅よりもずっと安心だ。
灯油ストーブに鍋を乗せ、残っていた野菜でスープを作る。お正月用だったお餅の残りが1袋あったので、それをご飯がわりにする。ランタンとストーブの火を明かりにして夕食を取る。
「本当にキャンプになってきたね」と笑い合う。この時には、もう、笑い事ではない自体だと理解していた。そして、笑ったりしないと乗り切れないとも分かってきていた。

フクも落ち着いて、顔を洗い始めた。自宅にいた時は、余震の度に「家を出よう。車に乗ろう」と訴えていたネルが、震えながらも布団の上にじっとしている。ネルには家の軋む音がしっかり聴こえてきたのかもしれない。

ワンセグでニュースを見る。想像を超える被害に驚きの連続。甚大な被害を受けた地名は、どれもがあまりにも身近だった。次々と大切な人達の顔が浮かんでくる。つながらない電話がもどかしい。充電式のワンセグも切れた。座布団を敷き、持ってきた掛け布団をかぶる。半分くらい残ったミニ大五郎を、二人で一口ずつ飲んで眠りに着いた。

3月12日給水所通い始まる 

朝食に昨夜、OTTOが作ってくれたおにぎりを食べ、即、親の家に向かう。道すがら買い物が出来れば良いと思っていたが、店はどこも閉まっている。実家側の小学校で給水をしているのが見えた。

親の家には、ひびも傾きも無く、安全と思われた。両親も落ち着いていたので「給水に行ってくる」と、水用ポリタンクを取りに自宅に戻った。途中、ガソリンスタンドに車が並んでいるのが見えた。この辺りで暮らすには車は必須。1時間並んで給油にありつく。1人6ℓ、900円。停電なので、手仕事で給油してくれる。これを最後に、ガソリンが手に入らず、大いに困ることになるのだが、この時にはそんな予想も出来なかった。

自宅地域の給水所が分からないので、役場に聞きに行き地図をもらう。比較的、空いていると勧められた給水所で2時間近く並ぶが、あまりの長蛇の列に気が遠くなる。夜にもう一度来ることにして、避難所でネルとフクの分だけ、紙コップに飲料水をもらい、自分たちはジュースで済ませることにした。

19時、再び給水所の○○センターに行くも、今日の給水は今現在、並んでいる人だけなので、あらたに並んでも給水出来ないと言われ、船岡小学校に向かう。20時から23時まで3時間並んで、20ℓと3ℓのポリタン、2ℓのペットボトル8本、500㎖4本に水をもらう。

並んでいる間、列の前や後ろの人々の会話が聞こえてくる。携帯が通じないことへの不満が多かった。安否を尋ねるメールが届いているのに、無事だという返信が出来ないもどかしさを全員が抱えていた。時折、センターにメールが届いているという知らせが届くが、センターに問い合わせてもメールはダウンロードされない。ずいぶん多くの電話やメールをいただいたようなのだけれど、着信記録も残らない状態なので、電波が一瞬戻っても、返信は全く出来ないのだった。

かなり粗暴な言葉使いで、武勇伝を語り続けていた後ろの若者。ふいに現れた母親から風邪薬ドリンクを渡され、仲間の手前、恥ずかしがりながらも素直に飲んでいたのも可笑しかった。
「これさぁ、一人暮らしだったらノイローゼになっちゃうな。みんなでバカなこと言ってっからどうにかなっけど」荒っぽい声が、ふいに小声になって、そんな言葉が聞こえてきた。

寒いこと、電話が通じないこと、給水車のタンクがあまりに小さいこと。誰もが不安や憤りが募っているにもかかわらず、水を待つ列は整然としていた。2時間も経つと、うるさかった若者も黙り始めた。
大きな余震が何度もあり、その度に押し黙っていた人々から悲鳴が上がる。揺れる校舎を眺めながら、私は「ねらわれた学園」のことを思いだしたりしていた。「ヘンテコな映画だったよなぁ」なんて、笑いたくなったりした。自分の置かれている現状に現実味は感じられなかった。

冷えきった身体で、水を運び車に戻ると、心配し続けていたネルがギョンギョン泣く。なぐさめながら家に戻り、バッタリと眠りに着いた。

3月11日午後2時26分からのこと 

地震発生の14:46。OTTOは仕事部屋で確定申告の計算中で、私は洗面所にいたらしい。私には地震発生から庭に出るまでの記憶がない。ただ、揺れを感じた瞬間「彫刻が壊れる」と思ったことだけを覚えている。

数日前、19日から始まる予定の「及川茂・聡子父娘展」の搬入があり、会場のしばた郷土館1階には父の石膏の作品が展示済みだった。頭の中には、父の彫刻が砕けてしまった最悪な映像と、しばたの郷土館の皆さんがどうにか作品を支えて下さって、割れずにすむという希望的映像が交互に現れ、現実の風景は全く意識できなかった。だから、こうして思い返しても、私には揺れる家の中の様子は全く思い出せず、空想の映像ばかりが再生される。

「彫刻、彫刻」とばかり繰り返し、逃げようとしない私にOTTOが「早く!」と、どなった。私は少し我に返って、家の前の道に上がる階段を昇ろうとするが、膝が震えて足が出ない。
どうにか階段を昇ると、道には石が転がっていた。「そこは危ないからもっとこっちに」と、しゃがみながらどなるOTTOが靴をはいていないと気づき、グレーのくつ下が目に入って、やっと現実の景色の方が空想の映像に勝った。次の瞬間、OTTOの膝の上で震えている愛娘犬が見え、一気に現実に戻った。「フクちゃん!」と愛息子兎のことを思い出したけれど、揺れが大きく、すぐ家に戻ることは不可能だった。道にOTTOと並びしゃがんで、ゼリーみたいに揺れる家々を見ていた。

一度目の揺れがおさまってから、OTTOが家に戻り、火元の確認をし、貴重品を持って道に戻ってきた。近所の人の話によれば地面が割れている箇所もあるとのこと。親の様子を見に行こうということになり、兎のフクを連れ出すために、移動用ケージに移した。フクの華奢な骨、フワフワの毛を手のひらに感じると、恐怖心が倍増するのを感じた。命はとてもかよわいと実感させられたのだと思う。

OTTOは埼玉の妹からのケータイ安否メールに返信。地震直後は、通話もメールも少しは通じる状態だった。私は父のケータイに電話をし「そっちはどう?大丈夫?」と聞くと「今、アトリエから家に戻ってきたけど、お母さんがうんともすんとも言わない。ちょっと待ってろ。後で」と、電話が切れた。

親のところに行く前に、しばたの郷土館に連れていって欲しいと懇願する私。「壊れていたって、今日は修繕できないんだからね。後でどうにかできるからね。今は命の問題なんだからね」と繰り返しながら、OTTOは郷土館に連れて行ってくれた。冷静に考えれば、その時、郷土館に行くのは間違いだと分かる。しかし、とにかく、その時は、彫刻の状態を確認しないことには何も出来ない気持ちだった。

郷土館に付くと、スタッフのSさんが忙しい手を止めて「大丈夫ですよ」と館内を見せて下さった。このところ地震が多かったので、彫刻はすべて布団の上に横にして寝かせて下さっていたのだ。私は感謝の気持ちがこみ上げ、涙ぐんだ。
この時には、まだ、この地震がこれほど大きな震災であり、万を越える人命を奪っていくとは思いも寄らなかった。ただ、動物的感覚として感じる大きな不安、恐怖の中で、父の彫刻が無事だったという安心が私に理性的判断を戻してくれたように思う。

道路のひび割れ、ブロックの崩れ等々に驚きながら親の家に着く。家には父の車が無く、消防車と赤帽さんの車が止まっている。一体何事かと緊張が走る。
「玄関が開いていて、声をかけても返事が無いので、誰か中に閉じこめられていると困ると思って、消防の人に中を確認してもらったところ」とのこと。見ず知らずの赤帽さんの親切に感謝である。近所の方が親は二人で山のアトリエに向かったと教えてくれる。お礼を言って「皆さんもお気を付けて、と声を掛け合い走り出す。

途中コンビニに寄るが、すでに乾電池や水はない。薄暗い中に、パニック気味のお客が大勢集まっていた。割れたビンやこぼれたジュースを掃除しながら「すみません、水はもうありません」と謝る店長さん。店内にはまだお菓子があった。カロリーメイトを手にした時、大きな余震が来た。悲鳴が響いて、お客がドッと動く。私も鳥肌が立って、手にしていた商品を手放してしまった。OTTOは目当てだった携帯の充電器を購入した。

山に着くと、雪が降り出してきた。父から地震の話を聞かされた。「津波10m!?!」「原発事故?」「マグニチュード8?」。全く信じられなかった。父は数字なんかすぐ間違えるから、きっと覚え違いか何かだろうと思ったが、父は頑として本当だと言うのだった。
「じゃ、とにかく気を付けて!」と、それぞれの家に向かった。吹雪く雪が視界を覆う。

自宅前の路肩に駐車し、OTTOはコンビニに買い出しに行った。私はネルを膝に乗せながら、車内でワンセグを見ていた。何より驚いたのは、この地震が東日本、太平洋側全体を襲ったものだということだった。地震の規模は明治以降最大のM8.8です、と伝える東京のアナウンサーの興奮が伝わり、不安がどんどん押し寄せてくる。日も暮れて、停電した町は暗さに沈む。
心細さも高まってOTTOに電話するが、全く通じない。

1時間以上経ち「乾電池はもうなかったよ」と、お菓子とアクエリアス、焼酎のミニカップを携えてOTTOが帰ってきた。ニュースで知った情報を説明すると、OTTOも目を丸くする。
ランタンと、アウトドア用の小さな蛍光灯で明かりを取る。私がぼんやりしている間に、OTTOがおにぎりを作ってくれた。「ご飯焚いてて良かったね」と言いながら「キャンプだと思おうね」などと、笑ったりした。
私たちはまだ、津波の被害など知り得なかったし、自分たちが今、笑って座っているこの家自体が、ひび割れ、大きく傾いていることにも気づいていなかった。

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