OIKAWA,Satoko blog

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人を作るということ 2 

私が「いつか作ることが出来たら」と思う理想の人形は、御所人形のような人形(それでいて、関節が動く人形)だ。

御所人形が私はとても好き。美しい白さで、ぷっくりと丸く、どこまでも無垢で無邪気。子供の時、御所人形を見た時、思い起こしたのは「鏡餅」だった。
あらためて考えると、鏡餅という連想も面白い。お年玉は昔はお餅だったと聞く。餅は命を表し、年長者が育ちゆく子供に命を与える、という意味があったそうである。そうしてみると「丸くて白いもの」が、美しいもので、命であったり、宝物である、という感じ方が古来からあるのじゃないだろうか、と思える。

以前、白い作品を描き始めた頃、作品に「瑤」「玲」といったタイトルを付けた。このれらの部首は「玉」で、形容詞としては「つややかな肌触りでうつくしいさま」をいい、動詞としては「たまとする・たまにする=玉のように大切にする」という意味がある。また、丸いものそのものを意味したり、白を意味することもある。「瑤」はそのものずばり、白く美しい玉と言う意味で、「玲」は、玉が触れて鳴る音のことだ。

丸だけで構成されたような身体は、丹念な胡粉塗りによって、しっとりとつやのある白さをたたえている。玉のような子供、というけれど、まさしくそれがそのまま御所人形なのじゃないだろうか、と思う。白くて丸いお餅が命だったように、白くて丸い人形は、活き活きとした子供の生命感とぴったり合う。

人形を作っていると「擦る」という工程がとても多い。擦って丸みを整えていくと、どんどん思い入れが深くなり、にわかに命らしきものが宿ってくる気がしてくるから不思議だ。玉とする、というのはこのことか、と思う。
「生きているように作る」のではなくて、「作られたものが生きはじめる」という感じ。命を表現するのではなく、モノに命が宿る感じ。人形を作っていると、この感じを強く受ける。

そういえば、ずいぶん前に、子供達に泥だんごを作らせる先生がテレビで紹介されていた。土を丸めて最終的にはピカピカの泥の玉ができ上がる。子供達が自分が育てた泥だんごを、それはそれは大事にしている姿が印象的だった。
私が制作中の人形に感じているかけがえのない感じや、「粘土であったもの」があたかも命のあるもののように思えるのも、きっと同じ何かなのではないかと思う。

今日、人形の各パーツがほぼ出来たので、これから彩色である。胡粉塗装を丁寧に施そうと思う。私の白い玉。つややかに活き活きしてくれると良いな。
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人間になる夢 

昨夜の夢は不思議だった。
髪が生えてきたくらいの赤ちゃんがいて、
それは私の子供、ということになっている。

「全然産んだ記憶がないんだけど、産んだみたい。名前付けなきゃ」
とOTTOに言い、二人で名前を考える夢。
ほんわかした可愛らしい男の子だった。
目が覚めて夢だと分かり、喪失感を感じた。
その位、愛おしい気持ちになっていた。

朝、OTTOにその話をし、
「それは人形を作っているからじゃない?」と言われ、
なるほど、そうだったのか、と納得した。
確かに夢の男の子は、制作中の人形に似ていた。
ひとことも話さなかったし、
私を見るというよりは、どこか遠くを見ているような表情だった。

「優太という名前が良いんじゃない?」と夢の中で話していたので、
人形の名前は優太にしようと思う。
夢の中のあの子くらい、可愛い子になると良いな。



人を作るということ 1 

私が表現としての人形を初めて見たのは、1989年に宮城県美術館で開かれた「美術の国の人形達」展だった。私が大学1年の時である。出品作品の中で、鮮烈に記憶しているのは四谷シモン氏の人形だ。
それまで私は、人形というのは意志が無く、所持者の思い通りに扱われる「傀儡」であり、その存在には「弱さ」のようなものが運命づけられていると思っていた。しかし、四谷シモン氏の人形は、圧倒的な強さを持っており、男性的な力にあふれていて驚いた。

私は男性が男性だけで増えようとする物語に興味がある。塚本晋也の鉄男シリーズにもそういったことを感じる。私が最も好きな映画監督、デヴィッド・クローネンバーグの「戦慄の絆」も、双子の産婦人科医が互いの技術で産まれ直ろうとする物語だ。
単性生殖は基本的にメスのものだから、男性が男性だけで増えようとするのは大抵不可能で、物語は悲劇に終わる。生物学的な努力では不可能だから、鉄男は「鉄」で、双子の産婦人科医も自作の道具と技術で「産む」ことを試みるのだろう。それは、未来派の作家たちが機械化や男性性に求めたものに通じるように思える。
男性が男性だけで増えようとする物語は悲劇に終わるからこそ、その切なさに私は惹かれるのだが、四谷シモン氏の人形は、男性による単性生殖が成就したように私には感じられ、驚きと共に、強く印象に残ったのではないかと思う。四谷シモン氏は自分をモデルにした人形も制作されていることにも、私には「男性が男性だけで増えようとする物語」を感じる。

錬金術にホムンクルス、それらは男性の神話とも思える。技術と道具とを持って人を作る。フランケンシュタインも、天馬博士も。女性である私が、人形を作る時というのは、それらと通じるのだろうか?それとも違うのだろうか?せっかくなので、考えてみたいところだ。

現在、ギャラリー山口で開かれている「小鉢公史展」。最近届いたDMの中で、最も私が見に行きたいと思った展覧会だ。DMには「進化論」という作品の写真が載っている。聖母子像のようでもあるが、母乳を持った人物は男性器も持つ両性具有だ。母乳は小さめなので、両性具有ではなく、むしろ母乳を得た男性、と見ることが出来る。「男性が男性だけで増えようとする物語」に通じるように思えてならない。小鉢公史さんの作品は、以前、山口で開かれていた「顔」をテーマにした展覧会で拝見した。その時も聖母像を思わせる作品で心に残っている。上京出来たらいいのに、と思う。小鉢公史さんは、アートジャム展「人形」にも出品されるので、とてもとても嬉しい。

小鉢 公史 展
ギャラリー山口
2008年1月7日(月)ー1月19日(土)
11:00-19:00

人形好きのDNA 

rika1.jpg


人形を作るのに罪悪感がある、と昨日のエントリーで書いた。
これは、多分、子供の時からのしつけのせいかと思う。
私はマンガやイラストを描くのが好きだったが、見つかるたびにしかられた。
親いわく「線がマンガになる」。
絵の線でなくなるから、やめなさいということだった。
(とはいえ、マンガを描くのは止めはせず、
今でも、始終筆ペンでマンガを描いているが。)

人形を作るのも、マンガ同様しかられると思いきや、
私が人形を作ることに、両親とも非常に協力的で驚く。
楽しみにしている雰囲気すらあるし、
父にいたっては
「お父さんが作ったらすごく上手にできるんじゃないかな」などと言っている。
どうやら、二人とも人形はかなり好きらしい。
宮城には堤人形という、伝統的な土人形があるが、
これなども両親共に好きで、私も子供の時から良く見ていた。
父の部屋には平田郷陽の写真集があり、
母の部屋には堀柳女の写真集があった。
お前が人形を作るなら、と少し前に譲り受け、
今は2冊とも私の部屋にある。

「がっかも人形が好きだった」と父。
「がっか」とは父の母、私の祖母の愛称である。
確かに、晩年寝込んだ祖母の枕元にはたくさんの人形が並んでいた。
一体、いつから大事にしていたのだろうと思うダッコちゃん人形もあった。
その中に、私が小学校の時作って、
祖母にプレゼントしたフェルトの人形もあって感動した。
手のひらに納まるような不出来な布人形を、
20年近く、大事にしていてくれたのだ。

祖母がまだ元気だった頃、
「これ、おにんぎょ」と、文化人形を見せてくれたことがある。
聞けば、祖母自身が、子供の頃見た文化人形の記憶を元に、
全く何も見ないで、作りあげたものという。
祖母は、縄文式土偶のことも「昔の人のおにんぎょ」と言っていた。
私はその「おにんぎょ」という言葉の響きが好きだった。

祖母が「おにんぎょ」であれば、
不出来な人形でも、文化人形でも、ダッコちゃんでも、土偶でも好きだったように、
私も、人形となると大抵大好きである。
創作人形でも、リカちゃんでも、郷土人形でも、土偶でも、埴輪でも、
見た途端「わぁ!」となって、他のことをすっかり忘れる。
なぜなのか、いつからなのか、全く分からない。
きっと、祖母と両親から続く、人形好きのDNAのためなのだろうな。
私の部屋の人形の数に、
さすがの母などもあきれ果て「おばけやしき」と嘆いているが、
私の人形熱は一向納まる気配はない。
DNAレベルなんだからしょうがない、と私も開き直っている。

写真は私が物心つくころに買ってもらった2代目リカちゃん。
30数年、そばにいる。

今年最初の 

今年最初の制作は人形。
今月29日からギャラリー山口で開かれる第4回アート・ジャム展に出品する予定。
この展覧会は2007年にギャラリー山口で個展を開催した作家を中心に
66人の作品が展示される。
今回のテーマは「人形 Doll Festival」。
人形がテーマであれば平面でも構わないとのことだったけれど、
せっかくなので、人形を出品することにした。

この展覧会の話をメールでいただいた時には、
座っていた椅子からすっくと立ち上がり、バンザイをして「ワーイっ!」と言った。
私はかなりの人形好きで(自室にはざっと30体位の人形が大小ひしめく)
自分でも人形制作を試みたりしている。
下の写真は試作品の山。独学だから、なかなかうまくいかない。

試作

人形を作るのは無性に楽しいけれど、
自分の中心は絵画なのだ、という気持ちがあって、
人形を作ることには罪悪感を持ってしまう。
けれど、今回は展覧会に向けての制作である。罪悪感なんて無用だ。
しっかり四つに組んで人形制作に向かえる。そのことが何より嬉しい。

出品者の名前をみると、敬愛する美術家の方々の名前もあり、くらくらした。
と同時に、この方々が「人形」をテーマに、
どんな作品を出品されるのだろうという興味が強く沸き起こる。

美術の展覧会なのに、
単純ストレートに人形を作ってしまっていいのだろうか?
と、自問したりもしたのだけれど、
ここは人形に対する欲望のままに、
「自分が可愛がりたいと思う人形」を作ろう、と考えなおした。

玄1
これが、人形の下図。

玄2
芯材の状態でもなんだか可愛い。

玄3
こんな調子で進行中。

玄4

顔も模索中。眼は仮のアクリルアイ。
グラスアイが届くまでに表情が決めたい。

朝からネンドを付けたり、ヤスリで削ったり、彫刻刀で彫ったり……
一度座って制作を始めると、立ち上がるタイミングが掴めなくなる。
あとちょっと、ここを、などと思っているうち夜も更ける。
私の脳内では、エンケファリンやβ-エンドルフィンが、
大量に放出されているに違いない。
多幸感で過集中。
OTTOに「ひからびないようにね」などと言われているところ。

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