OIKAWA,Satoko blog

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耳なし芳一 

「耳なし芳一」が怖いか、怖くないか。
時折、この話題で私とOTTOは盛り上がる。OTTOにとって「耳なし芳一」は怪談噺ベスト1らしい。まんが日本昔話で「耳なし芳一」を見て、トラウマになるほど怖かったそうだ。
私は「耳なし芳一」が怖くない。子供の時、OTTOと同じくまんが日本昔話でこの物語を知った。その時も悲しくて美しい物語だと思ったし、今も、情熱的な悲恋話に通じるように思え、魅力的に感じている。大きくなって、谷崎潤一郎の「春琴抄」を読んだ時に、すうっと「耳なし芳一」を思いだしたものだ。

二十歳を過ぎた頃、同じ下宿の住人が「耳なし芳一ほど怖い話はない」と言い出し、私はびっくりした。一体どこが怖いのか分からなかった。あんなにも自分の演奏を聴きたくて夜な夜な呼んでくれるなら、干からびたって構わない、と、思う気持ちが私にはある。

その意味では「雨月物語」も「日高川」も切なく惹きつけられるけれど、雨月物語は、綺麗で健康な姿に化けているという狡さがあるし、清姫はあまりに支配欲が強い。だから、相手に逃げ出されてしまう。いかにも悲しい最後だ。
それに比べて、芳一と平家の怨霊には、偽りのない相思相愛の関係がつかの間であろうと、あったことは事実だ。芳一が耳を失った後、なお一層演奏が評判になった、というあたり「セロ弾きのゴーシュ」にも通じるハッピーエンドだと私は思う。

怨霊は、最初に呼びに来る時こそ武士に化けているけれど、芳一の琵琶に泣き崩れている時には、鬼火の姿に戻っている。芳一が彼らを「見ること」ができなかったから、成り立った関係であることは確かだけど、互いはひたすらに「演奏」を求めているのだから、相手の姿を「見ること」は重要ではない。
芳一にとっての「演奏」への思い、平家の怨霊にとっての「演奏」への思いは正真正銘、一致していたんじゃないだろうか。これは果ては死に至るとしても幸福な刹那だと思う。

「見ること」の出来る和尚は、武士が怨霊であると知り、芳一の身体に般若心経を書く。怨霊の手から芳一を逃がし、奪回したのは「見ること」の出来る和尚なのだ。「演奏=聞くこと」を巡る相愛の関係は「見ること」によって終わりを迎える。和尚が、耳に経を書きわすれてしまうのは「見る」人の象徴として理解できるように思う。そして、怨霊は「演奏=聞くこと」の象徴として芳一の「耳」を持ち帰るのだ。
(平家物語はそれ自体、作者・信濃前司行長が生仏という盲目の音楽家に教えて語らせたとも伝えられ、その後も琵琶法師によって口伝されてきたという「耳」の物語だ。)

「春琴抄」においては、春琴の美しさを記憶に留めるため、佐助は「見ること」を放棄し、2人は三味線の音と、美しい記憶の中で生きることを選ぶ。
(「春琴抄」を読んだのは中学くらいで、確かジュニア文庫かなにかになっていたものだったと思うのだけど、大人は時に危ないものを子供に与えたがるものだと今になって考える。佐助が眼を針で突く件で、私はその行為の耽美さにくらめいたものだ。例えばバレンタインでクラスメイトにチョコレートを贈ることを禁止するなんていうことをしているわりに、「春琴抄」だの「雪国」だの「人間失格」だの、推薦読書にするというのはどういうことなんだろう。)

美しいものは不可視の岸にある。そこから現世にやって来るのは亡霊であったり、聖霊であったりするのだろう。現世にあって不可視の岸に生きるためには「見ること」(に象徴される「判断」のようなもの)を放棄しなければならないし、現世に生き続けるためには「耳」を失う。そんな感覚を「耳なし芳一」は私に沁みつかせた。

「見る」者の目には春琴・佐助の晩年が幸福に見えたとは思えない。しかし、自らの目を捨てた佐助に、傍目=判断など無関係。2人は、現世の中で不可視の岸に生きたのだ。芳一の「耳」は平家の怨霊によって不可視の岸に辿り着いた。彼が生涯、琵琶の名手と呼ばれ続けたのもそのためだったろうと思う。

だから、私には「耳なし芳一」は怖くない。むしろ、抗い難いほど魅惑的な誘いなのである。
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クリスティーン スティーヴン・キング著 

クリスティーン.jpg

※ホラー話なので苦手な人はご注意。

スティーヴン・キングの「クリスティーン」を再読した。不意に無性に読み返したくなる一冊だ。

自動車の整備だけが得意な、いじめられっ子〈負け犬〉の主人公、高校生のアーニー。アーニーが路傍に売られていたオンボロ車に一目惚れ。赤と白に塗り分けた’58年型プリマス・フューリー。車の名前はクリスティーン。だがクリスティーンはただの車ではなかった…。

という、キングらしいストーリー。ホラー小説でありながら、青春小説としてキングの作品の中でも切なさに満ちた一冊。作風としては静かで地味。上下2冊というボリュームなので、小説が好き、キングが好き、という人にしかなかなか勧められない本だ。
自分が好きな本ほど、勧めてから「つまんない」と言われると悲しくなるから、勧める勇気がでなかったりする。

この「クリスティーン」が絶版になっていると知って驚いた。勧めれば良かった。勧めまくれば良かった。確かに、キングの初期「シャイニング」「ファイアー・スターター」「デッド・ゾーン」など名作ぞろいの中、「クリスティーン」は目立たない一冊かもしれない。
しかし、同時期に執筆された非ホラーの「スタンド・バイ・ミー」(「恐怖の四季」の中の一編)にも通じる、戻ることのない時間、友情、というテーマが、「クリスティーン」では、B級テイスト、ホラー色満載で繰り広げられており、実にキングらしい、必読の一冊だと私は思っている。

クリスティーンを読んでいると、中盤まで私は5分に一回、切なくて泣きそうになる。そして、切なかった分、怒濤の終盤、悪夢の度合いが高まるという仕掛けになっている。

ストーリーは、負け犬アーニーの親友デニスの目線で進んで行く。アーニーがクリスティーンに魅入られて、恐ろしい出来事に巻き込まれて行く姿を読み手は、親友のまなざしで追うことになる。アーニーとの、幸せな日々はもう戻らない。アーニーは、ぼくのそばから離れて行ってしまう。どんなに心配しても、殴っても、喧嘩しても、もう、戻らない。

「もう、戻らない」という感覚。
親友が変わっていく、という感覚。
笑いあった日々は終わり、
大人になってしまうんだ、という感覚。

車、恋、ニキビ、ペプシ、痣、父親、親友、負け犬、バイト、ロック、女の子、フットボール、試験…おぞましい恐怖を彩るのは、キラキラした青春の瞬間瞬間。友達と笑い転げる、あの手放しの安心感と血塗られた恐怖が2重奏となって進んで行くから、読み手は、幸せなシーンを読むたびに幸せが崩れることを予感させられる。それが恐怖を倍増させるし、同時に、幸せな瞬間を愛おしく思わせる。読んでいて、自分も「頼むよ、アーニー」と、涙ながらに引き止めたくなってくる。でも、もう、戻らない。

今回、再読して少しショックだったのは、恐ろしい怨念をもってクリスティーンに命を吹き込んだ、ルベイという老人の気持ちに、自分がある程度理解を持ってしまったことだ。社会からはみ出し、周囲の人間全てを憎むルベイの気持ちを、私も少し持っている、そのことに悲しいような恐怖を感じてしまったりした。
イジケをこじらせながら年老いていったルベイの、世間を恨む思いがどんなものか、ある程度想像が付くということは、つまり、自分も歳をとったということなんだと思う。やだやだ。

本バトン 

久しぶりのバトン。
マイミク、りおさんからもらってきました。
 
1.いつ頃から本が好きになりましたか?

  小学校


2.家族に本好きな人はいますか?

  OTTO


3. 幼い頃に読んだ絵本は?

 






せなけいこさんの絵本
「ぐりとぐら」シリーズ


4.学生時代、読書感想文を書くのは好きでしたか?

  大好きでした。


5. 毎号チェックする雑誌はありますか?

 週間アスキー


6.ベストセラーは読む方ですか?
 
  ベストセラーだからと思って読むことはないし、
  ベストセラーを避けることもないです。

 
7.本は書店で買いますか、それとも図書館で借りますか。

  ほとんどの場合、書店。


8.あなたは「たくさん本を買うけど積読派」?
 「買った本はみんな目を通す派」?

  買った本の中で8割は読んで、2割は積読。


9.本を捨てることに抵抗がありますか?

  捨てた覚えはありません。手放す時は古本屋。


10.本をよんでる人は“目力”があると
   耳にしたことがありますが、そう思いますか?

  そんなこともないように思いますが。


11.本屋さん、何時間いられますか?

  いくらでも。


12.お気に入りの本屋さんがあったらおしえて♪

  仙台なら丸善。店員さんが丁寧なので。
  本は大抵Amazonで買います。


13.本屋さんへの要望・リクエストがあったらどうぞ。

  手書きポップとか、手が込んでいると、
  ほほ笑ましいので、そういうの希望かな。
 
14.気になる箇所にはラインを引く派?隅っこを折る派?

  どちらも絶対しない。


15.速読派と熟読派、あなたはどちらですか?

  速度を意識したことはありません。


16.本を読む場所で、お気に入りなのは?

  電車の中
  風邪をひいた時の寝床


17.無人島に1冊だけ本を持っていけるとしたら。

  聖書


18. 生涯の1冊、そんな存在の本はありますか?

  しぼれません。
  最も読み返した本は「中原中也詩集」
  これまでの人生に影響した気がするのは
 「闇のパトス」梅原猛
 「近代絵画」小林秀雄
 「イエスの生涯・キリストの誕生」遠藤周作

 
19. あなたのお気に入りの作家は?

 小説家、ということであれば…
 芥川龍之介 北杜夫 遠藤周作 
  ドストエフスキー 宮部みゆき
 スティーヴン・キング 村上龍 他・多数

 童話作家、なら
 アンデルセン 小川未明 ミヒャエル・エンデ


20.本を選ぶときのポイントやこだわりはありますか?

  背表紙が呼ぶのです。


21.本はどこから読みますか?

  普通に、最初から。


22. 昔、読んでた漫画

  漫画雑誌を読んでいたことはありません。
  昔読んでいて、今はあまり読まないといえば
  奇面組とか、超人ロック、パタリロ。
  それ以外の好きな漫画は基本的に
  昔も今も何度も読み返しています。


23.学生時代ハマった本
 
  松浦 理英子


24.つまるところ、あなたにとって本とは

  遠慮のいらない問答相手


25.まわす人5人

  どなたでも、受け取ってくれる方に。

「動物感覚」テンプル・グランディン・著 

思い煩うことが多い時、私は科学の本を読む。医学書でも良い。難しい、専門書ではなくて、科学者や医学者が書いた気楽な本でも構わない。これはこう思うべき、とか、こうしていこう!とか、これは美しいだとか、優しさとは、とか、そういうことが書いていない本。
事実をていねいに書かれている本。その事実が、私を驚かせ、感銘させてくれる本。そういう本が救いになる時がある。

糸井重里が、むか~し「好き、というのは、意味もなく見てしまうことだ」と書いていて、なるほど、と思った。著者は忘れてしまったけど「カメのいる日々」という大好きな本がある。(ずっと探しているのだが、引っ越しの際どこかに紛れてみつからない)この著者は科学者である。ペットのカメの生態が事細かに記録されている。どこにも「カメのこんなところが可愛い」とか「愛している」なんて書いていない。でも、もう、ページのすみずみまでが「カメ可愛い」の思いでいっぱいなのである。どこまでも、カメを見つめて記録する、その目線が、読み手の私に伝わるのだ。

今、私はテンプル・グランディン・著「動物感覚」という本を読んでいる。テンプル氏は言語障害を伴わない自閉症者である。彼女は、動物の知覚・行動のエキスパートだ。「私は動物の通訳」という彼女のこの本は、友情とも言える動物との共感に基づいた、動物の知覚を私たちに伝えてくれる。動物たちの知覚に共鳴する彼女の言葉は、多くの動物愛護を唱える人々とはまるで違う冷静さ、的確な観察に裏打ちされている。

彼女の仕事は、食肉となる牛が、苦しまずに、怖がらずに命を終えるシステムを開発することだ。自閉症と言うハンディを負い「人間よりも牛の方がよく分かる」という彼女は、その動物たちの死について、全生涯をかけている。

愛しているとか、好きだとか、そういった思いだけではなく、理解し、見つめ続ける、時に冷徹なほどの姿勢が、救いとなることもあるのだと、そう思う。
真摯に。必死に。



中也のこと 

さてどうすれば利するだらうか、とか
どうすれば哂われないですむだらうか、とかと

要するに人を相手の思惑に
明けくれすぐす、世の人々よ、

僕はあなたがたの心も尤もと感じ
一生懸命郷に従ってもみたのだが

今日また自分に帰るのだ
ひつぱつたゴムを手離したやうに

そうしてこの怠惰の窗の中から
扇の形に食指をひろげ

青空を喫う 閑を臙む
蛙さながら水に泛んで

夜は夜とて星をみる
あゝ 空の奥、空の奥。

中原中也

詩集『山羊の歌』より
「憔悴 �」


中原中也は、私が愛する詩人の一人である。思春期、文庫本の背がほつれるほどに、彼の詩をくり返し読んだ。思春期の感傷は彼の詩によって慰めを得るどころか、ますます深まって私をクラスメイト達から遠ざけたものだった。

今、こうして、この詩を読み返せば、いかに自分が周囲に対し、鼻持ちならない侮蔑を持っていたか、反面、周囲にとけ込めない自分を嫌悪していたかよく分かる。
彼の詩は、ともすれば文学少女用の、感傷に満ちた作品のように受け取られがちだ。しかし、彼の詩を感傷的の一言で評するのは間違である。私も幼いながら、感傷に酔うためだけに中也を読みふけっていたのではない。

彼の詩の大きな魅力であるユーモアは、彼の魂の健全さを示すものだ。その健全さを支えるものはこの詩で言うなら「空の奥」にある「救い」であり、「真理」である。「恩寵」というものかもしれない。
中也の詩には、いつも、届くことのないはるか遠くの「それ」を見やるまなざしが読まれている。 それは、感傷とは正反対の求道的な一貫した強いものだ。 「手が届くことはない」けれど「それ」は確かに「在る」という確信のもたらす力が、中也の「痛みを受け入れ続ける生き方」を支え、読む私をも支えてくれた。魂の健全さの基である。彼の感傷は、この力によって、成り立っている。「届きえない」恩寵は、風や、煙りや、音として、中也のそばに降りてくることがある。彼はそれを歌っていたのだと思う。

私は届かない「恩寵」を見やる中也の態度が、いかにも甘ったれた風情で好きだった。子供のような、すがるような、懐かしむような目線に、私は習い、彼のように手の届かない先に在る「恩寵」に焦がれた。
それが「祈り」なのだと理解した時、私の思春期は終わったように思う。病のような感傷は消え、「恩寵」を求めて心を澄まし、風や、煙りや、様々なものから、いつそれが降りてきても気付けるよう、生きていこうと決意した。

それを中也が詩にしたように、私はそれを絵にできれば、と願っている。

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