OIKAWA,Satoko blog

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毛細


精一杯のつもりだけれど、
こぼれてしまうこともある。

巻き戻せたら良いのに、と、
そんなことばかり考えさせる雨。雨。雨。
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捨てられない 

nemaki.jpg

とうとう、引っ越しをすることになった。
同じ町内への引っ越しだから、生活圏は変わらない。

変わるのは家の大きさ。
これまで7LDKに、4畳くらいある不思議な空間がふたつ、
2階建ての納屋付き、という広い家に住んでいたのだが、
今度の家は3DK。面積からみて、多分3分の1位になるだろう。
当然、物を整理し、手放したりもしなければいけない。

私は物が捨てられない性質だ。
意味不明の小物、雑貨、
子供時代からのおもちゃ、
切り抜き、年賀状・・・
今回は身を切る思いで、
それらを「持っていくもの/捨てるもの」に分けている。

例えば、寝巻き。(かい巻きともいうのかな)
物心ついた時から、ずっと私はこれで寝ていた。
幼稚園、小学校、中学校、高校、大学ずっとである。
ボロボロになっても、手放さなかった。
さすがにこれで寝ることは無くなって
10年以上経つけれど、捨てずに保管していた。
だけど、今度の家は押し入れだって少ない。
やっぱり、捨てなければいけない。
でも、つらい。寂しい。。。どうしよう。

考え込んで、ひらめいた。
写真を撮っておけばいいんだ!
ということで、寝巻きを撮影。
リカちゃんハウスも、リカちゃんの馬車も、
会心の出来のいたずら書きも、
写真に撮れば、いくらかは気楽に捨てることが出来る。

そういえば、ドラえもんの道具に
そんなカメラがあったなぁと思いだす。
大事で捨てられないけどかさばるものを
写真にして保管出来て、
それを好きな時に元に戻すことが出来るカメラ。
ドラえもんがいてくれたらなぁ。




ぺんてる筆と文字のいたずら書き 

私は漢和辞典が大好きである。昔からそうなので、あまり気に留めなかったが、どうやらかなり常軌を逸して好きらしい。子供の時も、広辞苑と漢和辞典に、何時間も没頭していた。意味を調べると同時に、字の成り立ちや、その形自体を味わうのも格別の楽しみである。だから、今は「五体字典」の類いも何冊か持っていて、自分の名前はもちろん、知り合いの名前をさまざまな字体で書いたりしては悦に入っている。以前、お世話になっている画廊の方が、画家の落款を辞典様にまとめた本を見せてくれたことがあったが、唸るほど綺麗で、実に面白かった。

「ぺんてる筆<中字>」という筆ペンが、私の最も愛する文房具。数ある筆ペンの中でも、これが筆頭(まさに筆頭)に書きやすい。「ぺんてる筆<中字>」が生産されなくなったら、河童が皿を無くしたくらい困ると思う。
子供の時からいたずら描きばかりしており、しかも筆圧が強いので、無残なほどに中指が変形している。これを緩和させたかった。それから、鉛筆やボールペンなど、先の固いものに馴れていると筆との親和性が下がる気がして(筆ペンも、あくまで筆「ペン」なのだけれども)かれこれ10年、メモでもなんでも筆ペンで記している。

特にティッシュボックス。思いついたもの、気を惹かれたもの、あとは全く意味もなく自分の名前など、ティッシュの箱に書き込んでしまう。便箋の裏表紙、破ったカレンダーの裏、何にでも書き込む。実はこれは父譲りの癖で、父の場合は「南無観自在菩薩」だの「聖不動明王」だの書いていることが多い。そのすき間に、愛犬の名前も書き込んであって笑ってしまう。笑って、ふと自宅のティッシュを裏返すと、自分も愛娘犬の名前を十も二十も書き連ねているのだから恐ろしい。血筋ってものだろうか。

漢和辞典を愛読していることも、取り立てて意識していなかったように、この文字のいたずら書きについても、特別意識したことがなかった。OTTOに、心底感じ入った声で「同じことするよね~」と指摘されて、そう言えば他所のお宅のティッシュは筆ペンで字が書き込んであったりはしない、と気がついたのだった。
その時私は、制作のために磨った墨で、何とは無し、手近な紙に自分の名前を書いていた。アトリエの床にしゃがみ込んで、さまざまな書体で書いた場合の、書き心地と見た印象にどっぷり浸かっていた。それのどこがそんなに面白いのか、なんとも説明は出来ないのだけれども、筆の腰、芯の感覚を感じながら「筆を置いて、引いて、微妙に曲げて、跳ねて、納める」ということの繰り返しが、いわば音楽のように楽しいのだ。ぐぐっ、ピヨ~~ン、トン、ポン…といった感じ。

私は友人たちよりもドローイングをしない。これには引け目も感じているが、もしかすると、この意味不明な「文字のいたずら書き」が、私にとってドローイングだったのかもしれない。書でもないし、描写でもない。文字が持つイメージを感じつつ、線を引く。ただ「無数に繰り返す」という法則も私の「文字のいたずら書き」には含まれている。それは何なのか、いくら考えても謎。ま、父も何も考えるでもなく、今もいたずら書きをしているので、それに倣い、ただ書くことを楽しめば良いことなのだとは思うけれども。いたずら書きなんだから。

句読点問題2 

先日の「句読点問題」の続編。台詞の括弧内に「。」を書く作家、書かない作家研究。数年前に芥川賞を受賞した平野啓一郎はきっと付けているのではないか?と想像し、確かめたところ付いていた!しかし、芥川や漱石、太宰、鴎外など近代文学も軒並み「~。」はなく、「」内には台詞のみであることが判明。「。」が付いている作家はというと小川未明や、坪田譲治など児童文学方面のようす。しかし、高橋健二の訳の場合はない。しかし、不思議だったのは川端康成。文庫本で確認したところある一冊は収録短編全て「。」違う短編集はすべて「。」なし。どういうことなのだろう。ほとんどの場合「。」のない記述がほとんど。そのためもしかして編集者がそこら辺を変えてしまっているのではないだろうか?と想像した。だとしたら、結構問題な気もするのだが。本当のところ分からないけど。

句読点問題 

今日、文章を書いていて、OTTOに指摘を受ける。「カギ括弧の中に 。←は普通付けないよ」と。すさまじく驚いた。「。」とは、つまり句読点の○のことである。ま、まさか!と思い、手近にあった倉橋由美子で確認。確かにせりふのカギ括弧内の終わりに「。」は無い。びっくりして読みに読んだ北杜夫で確認、やはり「。」で終わるせりふは無い。
Otto言うには、近代文学、例えば芥川ぐらいに遡らないと「。」は無いのだという。学校で確かにちゃんと習ったと思うのだ。せりふは「」の中に囲む。文のうしろには「。」と。びっくりしてしまったなあ。表記というのはルールだし、文章はそれによってのみ世界が成り立つ世界なんだから、そのルールを間違えていた、もしくは古いルールのままでいた、ということはとても恥ずかしいし、問題があること何じゃないか?とも思った。いつからそう変わったのでしょう? 学校では今どう教えているんだろう?
だからあえて モーニング娘。って、。を付けて強調するのかな?
頑張って、「。」をはずして書いてみたらとっても気持ち悪かった。東北弁で言うところの「いずい」感じがした。今でもせりふの終わりに 。を付けて括弧でくくっている若手作家っていないのだろうか?ちょっと調べてみたいと感じた次第。

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