OIKAWA,Satoko blog

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『海洋天堂』アクション無しのリー・リンチェイ 






「海洋天堂」は、あのジェット・リーが
はじめて、一切のアクションを封印して主演する映画。
(しかも、ほぼノーギャラで。)

ジェット・リーは自閉症の息子を持つ父親を演じています。
音楽担当は、久石譲さん。
医学監修には日本人も関わっているそうですが、
リーが主演なのにアクション無し、
テーマからみて、興行的に難しいとの判断からか、
日本での公開は今現在予定されていません。
そのため、日本での公開を願う活動が広がっているようです。

↓コチラで署名コメントなどができます。
ジェット・リーの「海洋天堂」を日本で観たい!

第13回上海国際映画祭、
メディア賞(最優秀作品賞・新人監督賞・主演男優賞)も受賞し、
すでに公開されている中国・香港での評価は高いようです。
予告編を見ても、クリストファー・ドイルらしい、美しい映像です。
自閉症の青年を演じる文章さんも自然だし、魅力的に思います。
主題歌はジェイ・チョウの「説了再見」。
今作が初監督のシュエ・シャオルーさんは
長く自閉症者に関わってこられたとのこと。
私もぜひ日本で公開して欲しいと思います。

予告編を見て、ひとつ驚いた点は、
中国語で自閉症は「孤独症」と呼ばれているということ。
自閉という日本語も、はたしてその症状に適した言葉だろうか
と思うこともあります。
名称によって、そのハンディキャップについてのイメージが固まり、
誤解を生じることも多々あります。
そういった点でも、文字情報だけではなく、映像、物語を通して、
自閉症(をはじめとする発達障碍やその他の障碍も)の理解が
深まることを願います。

今回の映画公開を願う活動は、
自閉症というテーマから、というだけではなく、
ジェット・リー(李 連杰)ファンからの
「リーのアクション無しの演技が観たい!」
という気持ちからも広まっているようで、
私はとてもすてきなことだな、と思っています。

ちなみに、一昨日の夜、私が見た映画は
ジャッキー・チェンの「ヤングマスター師弟出馬」
ラスト20分のクンフーアクションに
「やっぱり、ジャッキーすごーい!」と大感動。
そういえば、子供の時、手でくるみを割ることに憧れたのは、
この映画の影響だったのか、と思い出しました。
父は手でくるみを割れる人なので、
いつか自分も割ってみせるのだ!とひそかに練習をしたりしました。

小学校時代、父から「今日はジャッキー・チェンの映画があるぞ」
と言われ、ホクホクしてテレビを付けたら、
ジャッキーではない、小振りの坊主君が活躍しはじめ、
「なんだー、ジャッキーじゃないじゃん!」
とがっかりしたこともありました。
その小振りな坊主君こそが李 連杰、のちのリー・リンチェイ。
今では、リー・リンチェイも大好きな私です。
ジャッキーも、最近はいろいろがっかりするウワサも聞きますが、
それでも、ずっと好きだろうと思います。
そんな私は、タランティーノより、周星馳シンパだったりします。



『海洋天堂』
脚本・監督 シュエ・シャオルー(薛暁路)
撮影 クリストファー・ドイル(杜可風)
編集 ウィリアム・チョン(張叔平)
作曲 久石譲
美術指導 ハイ・チュンマン(奚仲文)



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美を求める業 

怪談2
「怪しき文豪怪談」で放送される、「片腕」(落合正幸監督)より


「怪しき文豪怪談」というNHKのドラマ番組が
8月23~26日、NHKBShiで午後10時から放送されるらしい。

川端康成の「片腕」を落合正幸監督、
太宰治の「葉桜と魔笛」を塚本晋也監督、
芥川龍之介の「鼻」を李相日監督、
室生犀星の原作「後の日」を是枝裕和監督が撮ったそう。

すごく見たいような、絶対見たくないような気持ち。

特に、川端の「片腕」は、
私が川端康成の中で特別に記憶している小説のひとつ。
あんなに幻視的な小説を、どう映像化するのだろう?
触感や嗅覚の描写をどう表現するのか?
第一、まんま片腕が出てきたら、
失笑してしまうように思うのだけど。
予告編を見ると、片腕を貸してくれる女性が
どうみても大人の女性で、
原作の「娘」とはずいぶんイメージが違う。
テレビ用に、いろいろ変えているのだろうと思う。

私は川端康成の小説を最後まで読めたことがほとんどない。
雪国など、最初の方だけで耐えられなくなってしまう。
女性の置かれている立場や心情が痛々しくてつら過ぎる。
その痛々しいさまが、
川端作品の透明な美しさを醸し出しているのだと思うのだが、
そういう川端康成の審美眼、感受性が私には怖くてならない。

その点「片腕」は、
女性が「片腕」という「物」になっているので、
女性には主体性はなく素性も人格も語られない。
その分、安心して(罪悪感なく)
女性の“美しさのみの享受”を
私は自分に許し、
最後まで読むことが出来たのだと思う。

「片腕」は、女性の総体から「美」を切り離し、
賛美したあげく、息の根を止めてしまう話だ。
(と、私は思う)

私は「片腕」が物であることに安心して読み進め、
物語の最後の最後、
主人公が娘の腕をうち捨てるところで慄然とする。
美意識や審美眼というものが、
かくも非人道的で残酷で手前勝手であることに気付くからだ。
主人公とともに、耽美にひたった自分の中に、
その残酷さがあることを自覚させられる衝撃。

美術収集家としても知られる川端康成。
美を求めることが、業でもあることを、
川端氏はよくよく知っていたのだろうと思う。


・川端康成「片腕」はここ↓で読めます。日本ペンクラブ 電子文藝館
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/novel/kawabatayasunari.html

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怪談
「怪しき文豪怪談」で放送される「後の日」(是枝裕和監督)より
私は是枝さんの「後の日」が一番見たいな。

NHK妖しき文豪怪談HP(予告編動画有り)


※予告編を見る限り、どれも原作通りというわけではなく、
 それぞれ解釈されたものになっているようです。
 原作に興味ある未読の方はネット上にも載っていますので、
 これを機に読まれてみては。
 
・太宰治「葉桜と魔笛」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/42376_15545.html
・芥川龍之介「鼻」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/42_15228.html

・「後の日」の原作は室生犀星の「童子」「後の日の童子」ですが、
 これはネット上では見つかりませんでした。

「暴力脱獄」と「破獄」 

先日、ポール・ニューマンが亡くなった。
「ハスラー」も「タワーリングインフェルノ」も大好きだけど、
去年末にDVDで見た「暴力脱獄」が、私には特別の1本である。
その邦題のひどさで、日本では評価を下げられているように思うが、
60年代の傑作の1本であることは確かだろう。
原題は「Cool Hand Luke」。
冷静にスマートな脱獄を繰り返す主人公ルークに、
周囲の囚人たちが憧れと尊敬をもって付けたあだ名が「Cool Hand Luke」。
暴力というより、ずっとほのぼのと、優しさにすら包まれた獄中生活。
にもかかわらず、何度も何度も何度も何度も脱獄を繰り返す主人公。
残忍な看守の手をすり抜け、囚人たちの敬愛も受け付けず、
常にひとりであろうとするルークに、しびれない人はいないと思う。
特に男子。この映画を見て心震えない男子は、私にその性別を譲りなさい、と言いたい。



そして、日本では緒形拳さんが亡くなった。
たくさんの映画やドラマが残されたが、
中でも私はNHKドラマの「破獄」(1985)が印象深い。
吉村昭が実話を元に書いた「破獄」をドラマ化したもの。
原作本のAmazonの説明は以下の通り。

昭和11年青森刑務所脱獄。昭和17年秋田刑務所脱獄。昭和19年網走刑務所脱獄。昭和23年札幌刑務所脱獄。犯罪史上未曽有の4度の脱獄を実行した無期刑囚佐久間清太郎。その緻密な計画と大胆な行動力、超人的ともいえる手口を、戦中・戦後の混乱した時代背景に重ねて入念に追跡し、獄房で厳重な監視を受ける彼と、彼を閉じこめた男たちの息詰る闘いを描破した力編。読売文学賞受賞作。


破獄こそ生きる目的というように、逃げに逃げ、
その破獄という行為を通して、自分を獲得する。
罪人でありながら、求道者のように思える佐久間を、緒形拳が演じる。
どんなに完璧に閉じこめられても(閉じこめられるからこそ)脱獄する、
その生き方は、子供心にも切実に迫ってきた。

手足に手錠をかけられながら、
鉄格子に、毎日ちょっとずつおみそ汁を口でこぼし、
腐食させて外す、というシーンがとても印象的で、
このドラマを見てから、おみそ汁の認識が変わった。
「よし。投獄されたら私もおみそ汁を垂らすぞ」と思ったものだ。

やりきれない気分の時、八方ふさがりな気分の時、
納得の行かないことに「Yes」と言わざるをえなかった時、
無性にどこかに行きたくなる時……
私は「Cool Hand Luke」の冒頭、
パーキングメーターを壊していくシーンを頭に再生する。
咎められて、笑い返すルークの笑顔を思い出す。
佐久間の動物のような顔を思い出す。

ポール・ニューマン氏と緒形拳さんが演じた二人の脱走者は、
私の中に住み込んでいて、
私に「与えられた環境に対する反抗心」を沸き立たせてくれる。
それは、夢や希望や憧れよりも、
もっと遠くに私を誘う支えになっている気がする。

■緒形拳さんの追悼番組として、
 11日23:00からNHK-BS2で、「破獄」が放送されます。

デッドゾーン デヴィッド・クローネンバーグ監督 




デッドゾーン
制作年 1983 
原題 THE DEAD ZONE
製作国 カナダ
監督: デヴィッド・クローネンバーグ
原作: スティーヴン・キング
脚本: ジェフリー・ボーム
撮影: マーク・アーウィン
音楽: マイケル・ケイメン
 
出演: クリストファー・ウォーケン
    ブルック・アダムス
   サラ・ブラックネル
ジャンル SF

昨夜見たカーペンターの「クリスティーン」が原作の良さを壊してしまった(私にとっての)悪例とすれば、このデッドゾーンは"監督と原作者、双方の才能が実に見事に結実"した幸せな例だ。("原作の雰囲気を忠実に映像化"したという点では、ロブ・ライナー監督の「ミザリー」が私としては筆頭。一方"原作を壊しながら、映画としてすごい"と思うのは、キューブリック監督の「シャイニング」。)クローネンバーグのファンも、キングのファンも、この映画を特別に大切に思う人は多いことと思う。

クローネンバーグは私の最愛の映画監督(最も好きな映画は「戦慄の絆」)。そのクローネンバーグが、私の大好きなキングを映画化して、しかも、主演は常に私の「好きな俳優ベスト5」に入っているクリストファー・ウォーケン 。そのそれぞれが、各自の最も良いところを発揮しているのだから、私には特別な作品である。

クローネンバーグ作品はどれも悲劇だ。それは本作もそうなのだけれど、デッドゾーンの悲しさは他のクローネンバーグ作品とは全く違う。クローネンバーグの作り上げる人物たちはみな壊れ物のような感情しか持っていないことが多い。だから、心が通いあうようなことは皆無で、絶望に満ち、しかも、そんな状態でいることに無自覚な人物ばかりだ。そして、無自覚なまま怒りや、悲しみをため込んで、クリーチャーになったり、クリーチャーを産み出したり、車の衝突に没頭したり、頭を破裂させたりしている。何をやり切れないと思い、何に憤って、何を欲しているのか分からないまま悪夢に魅入られている。

しかし、デッドゾーンの登場人物たちはみな、誠実さや、優しさにあふれた普通の生活者達だ。悲しいことは悲しみ、なぐさめ合い、誰かを助けたいと心から願っている。クローネンバーグ自身がインタビューの中で「キングの描く人物はみな人間的で誠実だ。これは私からは出てこないものだ。」と語っている。この、キングによって与えられたヒューマニズムが、クローネンバーグ作品の中でも、この映画を特別に魅力的なものにしているのだと私は思う。

本作はSFで、超能力ものである。けれど「超能力を持っている」と思い込んだ主人公の妄想だ、とも見ることができるようになっている。失恋の悲しみから、そのような妄想を持ってしまった男の物語だと解釈していった時、ヒロインの心から主人公ジョニーに聞こえてくる最後の台詞「I love you」が、なお一層の切なさを帯びて響いてくる。

SFは苦手な人にも、クローネンバーグはグロテスクで嫌いな人にも、この映画は「そんなこともないか」と感じさせてくれるのではないか、と思う。といっても、クローネンバーグを見慣れてしまった私だから、相対的にそう感じるだけかもしれないのだけれど。


その他、この映画の好きなところ
・「触れることで未来を透視することができる」主人公の、
 透視する時の「感覚」を、実に上手く映像化している点。
 画面の切り替え、クリストファー・ウォーケンの演技、効果音、
 それらによって、私は身体的な衝撃を感じてしまうくらいだ。
・主人公ジョニーが家庭教師をしている少年の声が実に美しい。
 私はこの声が聞きたくてDVDを再生する時すらある。
・全編通して感じられる冬、雪の印象。
・赤と青の色
・台詞の丁寧さ。詩的な響き。
・主人公ジョニー、その人自身の魅力

クリスティーン ジョン・カーペンター監督 


クリスティーン

制作年 1983 初公開年月 1984/05/
原題 CHRISTINE
製作国 アメリカ
監督: ジョン・カーペンター
原作: スティーヴン・キング
脚本: ビル・フィリップス
出演: キース・ゴードン
  アレクサンドラ・ポール
 ジョン・ストックウェル

※ホラー話ですので苦手な方はご注意

先日、クリスティーンを再読したので、映画も見てみようか、と思った次第。「ゼイリブ」はかなり好きな映画なので、ジョン・カーペンター監督のクリスティーン、どんな風なのか少し期待していたのだけど…。ダメです。原作を愛している人は見るとがっっっっっかりすることだろう。

原作では老人ルベイの「やむことのない怨念」がクリスティーンに禍々しい能力を与える。そのルベイのエピソードを、映画ではすっかりカットしている。そして、クリスティーン自身が、最初から超現実的な能力を持った車だった、という設定にされてしまっている。この点が、根本的に、絶対的に、ダメです。ルベイの怨念とアーニーの思春期の鬱屈が重なり合って悲劇を生んでいく様が、クリスティーンという物語の厚みであるのに、ルベイが消されてはもともこもない。

また、キャラクターがちっとも活きていない。アーニーもデニスもリーも、原作ではもっと魅力的で互いに対して誠実である。会話も知的で思いやりに満ちている。(デニスの俳優、ジェリー藤尾に似ている)互いを大切に思っているからこそ、アーニーの変貌が悲しく、また恐ろしいのに、あれじゃダメだ。ダーネルだって、原作じゃもっと恰好良い魅力的なワルなのだ。キングの作りだすキャラクターは、どんな端役でもそれぞれに人間的な魅力が与えられている。なのに、映画のキャラクター達は端役はもちろん、主要人物さえも空っぽ過ぎる。(とはいえ、アーニー役のキース・ゴードンは、好演だった。彼の異様さがこの映画で唯一、不吉な印象を与える要素になっているかと思う。)

原作と映画は違うのはかまわない。映画として面白ければそれでいいと私は思う。「ホラーだし、B級映画なんだから、これで充分面白い」という意見もあるかと思う。でも、ホラーも好きで、B級映画も好きな私としては、まさにその点においてこの映画は駄作だと思う。ホラーなのに少しも怖くないし、B級映画特有の「逸脱した思い入れ」がちっとも感じられないのだもの。

キングの描写は実に細やかで具体的だ。文章表現として、充分に視覚的なので映像化するには、それ以上の映像的解釈を与えないと原作を越えることは出来ない。(映画だけ見た人には、あのクリスティーンが自分で治っていくシーンが面白く見えるかもしれない。確かにちょっと面白いけど、原作を読んでいて浮かんでくるシーンの迫力はあんなものじゃないのだよ。)

キングの恐怖の描写で、私が特にぞっとするのは「嗅覚」の表現である。異様な匂い、腐臭、死臭などという言葉が頻繁に出てくる。これが、生理的嫌悪感と不安感を読者に与え続ける。修理され、新しく張り替えられたカバーの下から漂う「古い匂い」「腐臭」が、原作のクリスティーンには漂っている。そして、それはアーニー自身も気づいている。この辺りがゾワゾワと怖い。
「微かな匂い」というのは距離を表す。微かな匂いを感じる時、それは自分の「すぐ側」にあるものから漂っているはずだからだ。クリスティーンに乗り込むと感じる微かな腐臭は「彼女」と自分との親密な距離を感じさせるし「彼女」に包まれていることを感じさせる。クリスティーンの腐臭によって、生理的で性的な不快感を絶えず味わうことになる。
映画には、これら「嗅覚」の描写は一切出てこない。この点も、読書中味わう、あの肌から染み透ってくるような恐怖に、映画が少しも及ばない理由のひとつだと思える。

ガソリンスタンドでの炎上シーンを評価する人もいるけれど、私には、地味なストーリーに花を与えないとな、ということで作ったシーケンスに思える。クリスティーンの怖さは、外側からだけで捉えてはいけないのだ。クリスティーンが女性なのだから。見た目云々で近づいたにせよ、本当にそのおぞましさを感じるには、近づいて、乗り込んで、中に入り込む、という関係に落ちなければいけない。映画には、クリスティーンの車内のシーンがあまりに少ない。これは、この映画のスタッフが、クリスティーンと結局のところ「深い付き合い」にならなかったとこの証に思えてならない。

深いつき合いをしなくちゃ、切なさも、愛おしさも、そして恐怖も味わえっこない。

原作の小説「クリスティーン」の感想はこちらです。

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